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不埒な夢。

女性向け小説ブログ。年齢制限作品込みにつきご注意願います。

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(SS)you take me alon...

振り向いた瞬間に視界を埋めた景色に、私は言葉を失った。
高くて途方もない青の真ん中に、長い長い道があった。
それは私が今までに歩んできた道そのものであった。
こんなにも遠くまで来たのかと、感慨に耽った。
眺める景色は決して平坦なものではなかった。
随分と険しいところを乗り越えてきたのだ、と思うと、自信がわいてきた。


もう少しだけ。
がんばってみようか。


自ずと前向きになりつつある己を認めながら、頭の片隅で思った。
どうして私はまた、後ろを振り返ってみようなどと思ったのか。
いつだって、興味があるのは過去じゃなくて現在と未来だったはずだ。
今が最善であるために、どんどん新しくなっていくこと。
それだけのために、ここまで歩いてきたはずなのに。

何かを忘れている気がした。
それはとても大きな、大切なものであったような気がした。
それと同時に、忘れなければいけない何かでもあったように思えた。
私は前を向き直った。
寂しさがうすら寒いすきま風になって、心にあいた穴を通り過ぎた。
後ろと同じ景色が広がっていた。
後ろと同じくらいに、長く長く道が続いていた。
まぶしい青は途方もなく高く、遠かった。
少し尻込みして、不安になって、なんとなくこぶしを作って。
そうして私はまた、足を前に踏み出した。


ひとりでいくよ。


誰にともなく、そう呟いて。




この世に「いのち」を降ろす時、神様はその新しい「いのち」に、しばらくの間道先の案内人をつけるらしい。
「らしい」というのは、それが、私自身も人づてに聞いた情報であるからだ。
曰く、かの人物は「私の」案内人なのだそうで。


しばらくの間はきみといるよ。
きみがいろんなことをわかって、大丈夫だってなるまでは。


案内人の仕事は、長い割に後ろが詰まっていて大変らしい。
私のあとにも、何人もの案内人を務めなければならないとか。
その頃の私は、まだやっと、自分でタッパーをあけておしゃぶりを取り出すことができるようになったばかり。
ちゅぱちゅぱっ、と口さみしさを紛らわせながら見上げると、かの人は他の大人と、おんなじように笑っていた。

かの人はとても面倒見がよかった。
デパートで迷子になったときにはすぐに母親を見つけてくれたし、海で溺れかかった時には岸まで私を引っ張ってくれた。
上級生たちにいじめられ、ひとりぼっちで帰る通学路では、ずっと手を握っていてくれた。
どの時にも私は少なからず泣いていて、でもかの人は決して、私の涙を拭わなかった。
ただ私の隣にいることで、私が自分で泣き止み、自分で涙を拭うことができるようにしてくれた。

物心がついてからしばらくの間も、かの人は私の傍にいた。
姿が見えない時でも、「いるんでしょ」と空間に向かって話しかければ、どこからともなく現れて、にいっ、と笑って見せるのだ。
初めての挑戦をするときや、知らない場所に行くときには、私は必ずかの人を呼んだ。
当時の私は、本当ならもう、案内人は不要となるはずの年齢だったらしい。
でもかの人は私に甘かった。
はじめは「一人でおいきよ」って言うくせに、「一緒にきてよ」と言われると断れないのだった。
おかげで私は、いつでも平気だった。
学校で友達ができなくても、仲間はずれにされても、共働きの両親が、遅くまで家に帰ってこなくても。

初めて男の子と付き合った、中学三年生。
急に恥ずかしさを覚えた私は、しばらくかの人を呼ばなかった。
そのままいなくなってしまうのかと思ったけれど、その子が他の女の子を好きになったというタイミングで、かの人はまた現れた。
泣きすぎて瞼を腫らしまくっていた私は、おかげでやっぱり、その涙を自分で拭った。
いつまでいてくれるのかとかの人に聞いた。
これから先、誰も私を好きになってくれない気がして。

ずっといるよ。

穏やかな声を置かれて、私は安心してその夜を眠った。
別の子と付き合うことになった時には、また恥ずかしくなったのだけれど。


二十歳で社会人になり。
二十五歳で男性と初めて関係を持ち。
二十九歳で転職し。
三十二歳で婚約破棄を経験し。
三十五歳で結婚して。
四十一歳で離婚した。


急ながらんどうが空恐ろしくなって、私は遠いところに旅に出た。
リュックを背負って、ひたすらに歩いた。
隣にかの人を引き連れて、しばらくはお互いに、黙っていた。
舗装のない道のりは、慢性的な運動不足の身体にこたえた。
じきに私の息は切れ始めた。
立ち止まり、両ひざに手をついて息を荒げる回数が増える。
疲労とやるせなさを溜め込む私の手を、いつからかかの人が握って、先導するようになっていた。
大きくて乾いていて、私のそれと同じくらいのぬくもりをしていた。
何となく、ごめんねと謝った。
かの人は、ううん、と返したきりだったが、いくらか歩んだあたりで、唐突に言った。

つらいね。

私は頷いた。
涙が頬を流れた。
子供のようにしゃくりあげながら、私は先に歩みを進めた。

でも、えらいね。

労いの言葉が、ぼろぼろになっていた心にしみた。
えらくなんかない。
私は、いつだってだめだ。
人並みのことが、人並みにできない。

そんなこと、ないよ。
きみはいつでも、ひとりでちゃんと頑張ってきたんだから。

私は否定したかったが、できなかった。
かの人の顔を見上げたまま、返答に詰まってしまった。
私はひとりなんかじゃなかった。
いつだって、目の前の存在が傍にいてくれたから。
でも同時に、ひとりだったのかもしれないとも思った。
かの人のことが見えているのは、私だけ。
私以外の誰も、かの人の存在を認識している人物はいなかった。


きみはもう、とっくに大丈夫なんだよ。


軽く俯いたまま、こちらを見ないままだったかの人が、ここでやっと私を見た。
私を見て、笑った。


ほら、うしろ。


背後に視線をやる、かの人に私はつられた。
振り向いた瞬間に視界を埋めた景色に、私は言葉を失った。
高くて途方もない青の真ん中に、長い長い道があった。


(SS)白昼夢。

左の頬骨がやけに痛いので目が覚めた。
瞼を開いて一番に目に入ったのは、グラスの結露を吸って柔らかくなったコースター。
印刷されている、陽気そうな笑みを浮かべたウサギのキャラクターが話しかけてくる。
なんだって、「やい、起きろ」だと。


んなアホな。


現実と非現実の絶妙な混ざり具合に、かえって意識がはっきりした。
身体を起こしてようやく、最近お気に入りのバーで居眠りをしてしまっていたことに気づいた。
そうだ、暖かい季節になったし、ちょっとばかり夜桜を肴にひっかけようと思ったんだった。
頼んだのはカルアミルク。
二杯くらいしか飲んでないはずなんだけど、なんでこんなに眠くなってしまったんだろう。

目をこすって小さくあくびをかみ殺せば、お目覚めかい、なんて、バーテンさんにからかわれ。
すみませんでした、と頭を下げて財布を出すと、風が出てきたから気を付けて、だって。
とりあえずの営業スマイルを返したところで、ふと気づいた。


銀髪だぁ?


「……なんだ、どうした?」

自分を凝視する私に、不思議そうに声をかけてくるバーテンのお兄さん。
口調が馴れ馴れしいのは問題じゃない。
ここのバーテン、もとい店長は、私とはいつもこんな感じだから。
というか、いつもこんな感じ、という「設定」だったから。

目の前にいるのは、長身に浅黒い肌、白に近いような白銀の髪の毛の男性。
薄暗い店内だからはっきりしないけど、多分瞳の色はすごく薄いブルー。
いつかに私が書いた、小説の主人公。


ははぁ、こりゃ夢だな。
なるほど、これが明晰夢ってやつか。


初めての経験はとても興味深く、私は自分の手やら持ち物やら、店内やらを見回した。
そうだそうだ、こんな設定にしといたんだっけ。
で、時間軸的にはいつ頃なのかしら。
あの話でいうと、どの辺まで進んだところなんだろう。
わくわくしながら色々と考えるものの、どうにも頭が重くて痛い。
明晰夢のくせに頭痛とはこれいかに。
私の見ている夢なんだから、思うとおりになったっていいものを。

「大丈夫か? 顔色悪いぞ」

「あ……ありがとう」

ワイングラスいっぱいの水を差出しながら、店長が気遣ってくれる。
なんだか申し訳ない気がして、私は店を出ることにした。
本当はもう少しいたいんだけど、どうにも頭の痛みがおさまらなくて、それどころじゃない。
ストールをひっかけてふらふらと出入り口に向かうと、店長が見送りについて来てくれた。
もう一度お礼を告げて扉を出ると、入れ違いに男女4人が話しながら店に入っていった。
店長とそのうちの一人が親しげに挨拶を交わすのが聞こえる。
なんとなく振り返って目に入る、連中の容姿。
赤毛の男性とカスタードクリーム色の髪の女性がいたことで、これが夢なのだという確信が強まった。
終電を気にしながら、そんな自分に「いや、意味ないから」と突っ込みを入れる。
地下鉄への階段を降りつつ、明晰夢の中でも帰るのには乗り物がいるのかなどと考えつつ、私はもう一度あくびをかみ殺した。



翌朝の目覚めは最悪だった。
寝過ごしたのだ。
慌てて支度をして、何とかいつもと同じ時間の電車に間に合った。
ひしめく車内で揺られながら、見るとはなしに吊り広告を眺める。
どの週刊誌の見出しも無意味なほどに扇情的で、日本語の意味がわからなくなる。
「みなさんこんなことが許せますか!?」と言わんばかりのそれは、最早ありふれすぎていて退屈に思えるくらいだ。

時間つぶしにすべての見出しを読み、それでも下車まで時間があったので、別の吊り広告に目をやる。
今度のそれは、ウサギの横顔をかたどったマークが有名な出版社の、今月発売となる文庫本一覧の広告だった。
各々の作家さんの名前と本のタイトルと見出しが縦に並び、一番下にはウサギのマーク。
キャッチフレーズの「こっちにおいで」が、ウサギのセリフのようにふき出しの中に書かれている。


ウサギっていえば、あの男性誌もだったっけ。


「アッチ」が強いのが理由とのことで採用されたんだっけ、なんて、朝から下品なことを考えつつ、私は新刊一覧を確認する。
その中のある著者名に、私は奇妙な気分になった。
まさか実在するとは思わなかったのだ。
私がかつて書いた話に登場する人物と、同じ名前のエッセイストなんて。
昨日の夜には中途半端な明晰夢を見ていたこともあり、なんだか気持ちが悪くなった。
私は今日から今までとは違う部署に配属になる。
大変なのはこれからだというのに、今からもう頭が痛くなってしまいそうだ。

カバンに頭痛薬はあったろうか。
なければ近くの薬局にでも寄っておこう。
あと、煙草もいつもより多めに買っておくか。

その後の通勤の間は、そんなことばかり考えていた。
出社後、社内で紹介された女性の先輩社員の名前を見て、思わず白目を剥くとも知らずに。


結論から言うと、彼女もまた、私が過去に書いた小説の登場人物だったのだ。
たしかこの人には絵描きの恋人がいたはず。
この設定からすると、まだ再会するには至ってないか。

大変だろうけどね、もうちょっとだから頑張ってね。

親切に業務内容を教えてくれる彼女の言葉をメモに取りつつ、私は全く無関係な感想を抱いた。
そしてまた気づいた。
これもまた、明晰夢の中なのだと。
なんと、目覚めてもまだ眠ってるってか。
んじゃ夢の中で眠ったら、現実では目が覚めるとかってことにはならないのかしら。

「大丈夫ですか、なにか、わからないところはないですか?」

一通りの説明が終わった彼女が聞いてくれる。
大丈夫だという旨と礼を告げ、私は早速仕事に取りかかった。
「夢の中で寝る」を試せるとしたら昼休憩だ。
早く時間が過ぎるようにするには、一生懸命働くのが一番いい。


明晰なのは私の意識だけで、何一つ自分の思い通りにならない夢。
こんな半端で、器用なんだか不器用なんだかわからない芸当ができるのは私くらいのものだろう。
なんて微妙なんだ。


つらつらと不満をこねまわしながら仕事をしていたら、どうも随分難しい顔をしていたらしく。
眉間に皺が寄っちゃってますよ、と、かの先輩に笑われてしまった。
お昼休憩には一緒に食べないかと誘われたが、朝からちょっと頭痛がすると言い訳して断った。
適当にコッペパン(あんこマーガリン)をかじって机に突っ伏す。
さあ、こんどこそお目覚めだ。



なんとも気持ち悪い、「二段構えの微妙な明晰夢」を見た週末。
私は買い物をしに、某大型百貨店を訪れていた。
銀座にあるこのデパートは大好きなのだが、何しろ何を見ても商品が高いのなんの。
なかなか手が出せるものがないので、目の保養にとどめて一通りのハイブランドを楽しむ。
こういうところの店員さんは教育が行き届いているもので、買いそうにない私のような客でも丁寧に対応してくれる。
丁寧に対応してくれるので……買っちゃったものもあったりして。

どうにも手に入れたくなってしまったのは、あるイタリアの老舗香水ブランドの逸品だった。
私は花の匂いの香水が好きなのだが、試しに嗅がせてもらったそれが、ものすごく良い香りだったのだ。
ドラッグストアで売っているものの半分の量しかないのに、金額はゼロが一つ多い。
うわぁ、と思ったものの、どうにも諦めがつかず。
思い切って購入した私に、店員さんはおまけとしていくつかの別の香水のサンプルをくれた。
最後まで気持ちよく対応してくれたことに感謝し、七階にある喫煙ルームを目指した。
このデパートの気に入っているところは、実はこの喫煙場所の景色もだったりするのだ。

室内には誰もいなかったので、私は品物の袋やら羽織っていたコートやらを脱ぎ散らかした。
適当にそれらをまとめて、ポケットからジッポライターを取り出す。
真鍮にアラベスク模様の刻まれたそれは、長年使っているお気に入りだ。
ミリ数を5ミリから3ミリに下げたものの、消費税率が変わる直前というのはタイミング的によろしくなかった。
結局、一日に吸う本数が増えてしまって、今まで以上に財布を圧迫しているのだから。

紫煙をくゆらせつつ、また5ミリに戻そうか、などと思っているところで、ピンヒールの音を響かせて一人の女性が室内に入ってきた。
ゆるくパーマのかかったロングヘアは蜂蜜みたいな金色。
それをばさばさなびかせて、ついでに高そうなスプリングコートの裾までひらめかせて。
ハイヒールなどはかずとも、十分すぎるほどに長身だもんだから、その迫力たるやすさまじかった。
彼女はつかつかと窓辺までやってきたかと思えば、不機嫌そうに、これまた高そうなライターを取り出し、火打石を親指で擦る。
私はしばしの間、思わずその人をじっと見つめてしまった。
ひかれたルージュも麗しい唇に咥えられた、細長い煙草の角度が美しくて。

「……あの」

「! あ、すみません……」

唐突に顔を上げて話しかけられ、反射的に謝ってしまった。
それくらい、私はその人のことを凝視してしまっていたのだ。
私の恐縮する様に彼女、もとい「彼」は、一瞬きょとんとした顔をした。

「え?」

「あ、や……す、すみません」

「いや、あのね、ちょっと、お願いが」

脳内設定どおりの美声に、スーパーモデルもかくやという豪奢さに眩暈を覚えながら、私は状況を確認した。
彼の手にはライター、唇には火のついていない煙草。
慌てて自分のジッポーを差し出すと、彼は小気味よい音を立てて火をつけ、ありがと、とそれを返してくれる。
弧になった両目の奥にはNI○EAの青缶によく似た色の瞳。
こちらにジッポを渡してくる、そのすらっと長い指にマニキュアはない。
なんとなく笑みをこぼして、それから、あぁ、と辟易した。


私はまだ、夢の中にいる。
目の前にいる、女装の似合う彼もまた、私が書いたキャラクターのひとり。


「ちょっと、大丈夫?」

「あ、はい……」

途端に、眺めていた階下の絶景が恐ろしいものに変わる。
思わずしゃがみこんだところ、隣にいる彼が心配して声をかけてくれた。
一度立ち上がり、灰皿近くにあるベンチに座ったところ、彼も距離を置いて、私と同じ側に並んでいるベンチに腰掛けてきた。
何となく気にかけているのを悟られないように、だろう。
彼は手持ちのハンドバッグを探りだした。
スマートフォンを取り出したとき、一緒に何かが落っこちて、カタン、と音を立てた。
私の足元まで勢いで滑ってきたので拾い上げる。
それはジッポとはまた別のオイル式ライターだった。
ボディには装飾的に刻まれた「Shake it!(早く!)」という文字と、擬人化されて走っているウサギのデザイン。

「あら、ごめんなさいね」

「いえ、素敵なライターですね」

「ありがとう。これもらいものなのよ」

「いい趣味のお友達がいらっしゃるんですね」

何とも意味深で可愛らしいそれを返すと、彼は何とも言えない笑みを浮かべて、落としたライターを受け取った。
わたしはしみじみと彼を見た。
世間話をしてしまったのも彼の手の内なのだとしたら、自分の妄想も随分なものだ、と。

私は彼には特別の思い入れがあった。
あの頃、すべてを彼に込めていたから。
理想とか、希望とか、自分の好む男性の姿とか。
そして毎度のことながら考える。
今はあの話の中の、一体いつくらいなのだろう。
プレゼントを贈るくだりなんて書いていなかったはずだけれど。
まあいい。
うまく絆を保ってくれているなら、それで。


煙草を一本吸い終わった頃、彼はスマートフォンで誰かと話をしていた。
どうも、今日一緒に外出した相手のようだ。
下の階の本屋で有名な作家のサイン会があったとかで、丁度今終わったらしい。
彼がイラついていたのは、サイン会が盛況で長いこと待たされていたことと、多少の嫉妬が原因のようだ。
私が三本目を吸い終わる頃に、彼の連れがやって来た。
ごめん、待った?から始まる彼らの会話に出てきた作家名に、私は今度こそ天を仰いだ。
その人物の名前もまた、心当たりのあるものだったから。


夢の中とはいえ、そこまでしなくちゃいけないものか。
でもそうでもしないと、私はいつまでも戻れない。


二人連れに軽く会釈をし、荷物をまとめて喫煙室を出た。
目指すのは屋上。
17階建てのビルのてっぺん。

インセ○ションぱねぇ。
まじパネェ。

エレベーター内でぶつぶつ呟く私は、さぞかし「春に多くなるああいう人」に見えたことだろう。
辿り着いたそこは展望台になっていた。
乗り越え禁止の柵は何のためにあるのかわからないくらいに低かった。
せっかくなので、先ほど買った香水をつけた。
これしきの事で気休めになるとは思わないけれど、どうせなら、少しでも好きなものに包まれていたい。
いらないものをみんな足元に置いて、ギリギリのところに立った。
勝手に震える脚に、一瞬だけ力を入れる。
ゆっくりは怖いから、思いっきりいった。
目は閉じるつもりができなかった。
そっちの方が、見えているよりも怖い気がしたから。
お腹の中に、ジェットコースターに乗っているときみたいな浮遊感が満ちる。
バカみたいな速度で迫ってくる地面。
ぶつかる、と思った瞬間に、やっと瞼が下がってきた。




眠っているときに、突然身体が「ビクっと」するあれには、「ジャーキング」という名前があるそうだ。
私を襲ったものも、きっとそれだと思う。
身体の「落ちる!!」という感覚と、それに伴った「不随意の筋肉の痙攣」―つまりビクッと、だ―に、私は思わず身体をのけ反らせ、辺りを見回した。
私の周囲の席に座っている人たちが、誰も彼も不審な顔をしていた。
何でこんなに一杯人がいるんだ、と思ったそばから「当たり前じゃん」と答えが浮かぶ。

ここは劇場。
今日は、ずっと憧れていた、あるパフォーマーのリバイバル公演。

迷って悩んでチケットに応募して、当選して。
ものすごく早い時間に来てしまったのだけど、すぐに席に座ってもいいと通してもらえて。
番号と場所を確認してみれば、なんとそこは一番前のど真ん中の席。
こんなところから見れちゃうのか、と、興奮するやらハラハラするやら。
買ったパンフレットやグッズやらを眺めて楽しんでいたのが、いつの間にか居眠りしていたらしい。


憧れの劇場で居眠り。
しかも見たのが似非明晰夢でインセ○ションのバッタもん。
あたしゃ一体どんな神経してるんだ。
……あ、逆?
人間って、緊張が過ぎると眠くなることもあるんだっけ。


諸々考えては一人で赤面しつつ、手荷物をカバンに仕舞おうと、足元に落としてしまっていたパンフレットを拾った。
表紙には燕尾服を着て走るウサギの絵。
この絵が今回のキーワードらしい。
何度見ても、実にぴったりだと思う。
彼の演目はいつも、どこかしら謎めいた雰囲気を持っているから。

じきにゆっくりとライトが落ち、開演を告げるブザーが鳴った。
私は慌ててパンフレットを仕舞う。
正面の舞台を見上げた瞬間に、かの人の声が響いた。
何度も何度も映像で繰り返し見て、聞いた、あの声が。



―人には誰にでも、その人にふさわしい舞台というものがあります



感動に思わず涙がにじんでしまう。
ああもう、ハンカチはカバンの中なのに。
感慨をぐっとこらえて、私は舞台に見入った。
ライトはまだ点かず、かの人の姿は見えない。



―各々に用意されたそれは、必ずしも、本人の希望通りとは限らない

―特別な場所に行きたくても、そうなれない人

―あるいは、多くの人と同じ舞台がいいと思うのに、特別な何かを与えられた人



劇場に響く声に胸を震わせながらも、しかし私は不安になった。
これは私の知る、どの彼の舞台とも違っていたからだ。
今日の公演は、過去に好評を博したツアーのリバイバルだったはずだ。
こんな舞台を私は知らない。
一体どういうことなのだろう。

朗々と紡がれる言葉に耳を傾けつつ、私は舞台の変化を見守る。
けれど、未だ彼は現れない。
美しい声で、意味深な台詞は続く。



―あなたは一体、どんな舞台を望むでしょう

―また、どんな舞台に選ばれているのでしょう

―いずれにしろ、一つだけ言えることは



「あなた自身が足を踏み出さなければ、どんな舞台にも上がることはできないということ」

スポットライトのど真ん中、集まった観客たちの前に、ようやく彼は姿を見せた。
胸にわだかまっていた疑問が、一瞬消え去った。
左右の隣にいる人同様、胸にどっと、熱いものがこみ上げる。
本物が目の前にいる、という、もうその一言だけに尽きる想いで染まっていく。
それ以外のことが、大したことでなくなっていく。


はずだったのに。


ある意味では度肝を抜かれた。
だが違う意味で拍子抜けした。
しかしながら別の意味ではとても興奮した。
そして、それらが過ぎ去ってから戦慄を覚えた。

舞台の上の彼の顔は、私の知るそれではなかったからだ。
むしろ人間でさえなかった。
真っ白い毛むくじゃら。
触覚もかくやという角度で、顔よりも長く上に伸びた耳。
つぶらな瞳に、もこっと丸い鼻筋。

彼はウサギだった。
頭から上が、ウサギそのまんまだった。
すらりとした長身に燕尾服を纏い、金色の懐中時計の鎖をポケットから垂らしておきながら。
かぶりものでは断じてない。
あの口元のニンジンでもモグモグやりそうな動きは、絶対に人工物で再現できる代物じゃない。


「もしもあなたに上がりたい舞台があるのなら、やるべきことはひとつ」


しかもそのウサギ、舞台上で喋りながらこちらを覗き込んでくるのだ。
いや、こちらというのは正しくない。
舞台から「私の席」に向かって、身を乗り出してくるというか。
真正面に迫ったウサギの顔に、私は思わずのけ反る。
とはいえ後ろは背もたれだ。
下がるにしても限りがある。
どうしたらいいかもわからず、私はつぶれた虫のように椅子に貼りつく。
これも演出のうちなのだろうか。
だとしたら、こんなのとんでもなく「彼」らしくない。



―跳んで



「え?」

まるで囁きのようなそれは、最早台詞ではなかった。
思わず聞き返した瞬間に、椅子ごと私の席の床が抜けた。



―どうしていつまでもそんなところにいるの?

―どこが自分にとってふさわしい場所か、わかっているんじゃないの?



もがきながらどんどん落ちていく私に、あの声―最早彼なのかウサギなのかわからない―が語る。
周囲は何もない、本当に何もない真っ暗闇。
あまりにも真っ暗すぎて、もみくちゃになって、わからなくなっていく。
私は本当に落ちているのか、あるいは、どんどん上に向かっているのか。
そしてどこかでは思う。
どうせこれも夢なのだと。
夢であるからには、これもまた、私自身が作り出したものに過ぎないのだと。
跳べるなら跳びたいに決まってる。
行けるなら行きたいよ。
でも、それができないから苦しいんじゃないか。



―そんなところで時間潰してると、遅れちゃうよ

わかってるよ、ばか!



思わず叫んだ瞬間に、私は夢から醒めた。



小さな部屋は、相変わらずモノでひしめいていた。
仮眠のために用意した毛布が丸まっているのは、最近めっきり暖かくなって使わなくなったから。
飲みかけのコーヒーはとっくに冷たくなっている。
かじりかけのチョコレートが、なぜか空になった煙草の箱の中に収まっていた。
なんとなくそれを取り出し、口に含みながら煙草の箱を捨てる。
ごみ箱がいっぱいだったので、力を込めて袋の中に空き箱を押し込んだ。
日付は変わって、午前3時51分。
ああ、今日は燃えるごみの日だ。
忘れないうちにまとめておかないと。
ペットボトルも大分あるから、次の回収日に出そう。

書きかけのテキストファイルを確認する。
どうも、この途中で眠ってしまったらしい。
文章が途中からアルファベットの羅列になり、その後にはずーっと、アルファベットの「p」が続いていた。
不要な部分を消して、ファイルを上書き保存する。
飲み残しのコーヒーを呷る。
みじめな気持が膨らんだ。
夢の中にいたときには、あんなに戻りたかったのに。



―跳んで



夢の記憶は、はっきりと目が覚めるごとに薄れていく。
耳にこびりついたあの囁きが消えてしまうのが、なぜか、とても惜しく思えた。
私は新しいテキストファイルを開き、夢のあらましを大急ぎで書き留めた。
荒唐無稽もいいところだとは思うが、こんな話が一つくらいあったっていいだろう。
これが、今の私の現実なのだから。

覚えている範囲をおおかた文字にしたところで、画面視線を定めたまま周囲を手さぐり、煙草を探した。
それらしいものに触れたので掴むと、一緒に何か別のものもくっついてきた。
どうやらトランプか何からしい。
箱から一本取り出し、火をつけてから確かめる。
こんなトランプ、持っていただろうか。
絵柄はジョーカー。
おとぎ話に出てきそうなテイストで描かれたウサギが、あの特有の胡散臭さを纏ってこちらを見ている。

「……跳べると思うかい」

誰もが寝静まった時間帯の独り言は、どんなに小さくしたつもりでも妙に部屋に響く。
煙草を吸いながらそんなことを言ったせいで、煙が目に入った。
にじむ涙を拭うのに、人差し指と中指に挟んだカードを机に置く。
印刷部分にあたる光の反射の加減のせいだろう。
ウサギが私に、ウインクしたのが見えた。


(SS)したごころ


みーちゃんはお隣さんとこの息子で、あたしと同じ学校に通っている。
同じ高校で、学年が二つ上。
引っ越してきたのは四年前。
仲はいいと思うけど、おさななじみ、と言えるほどには、あたしはみーちゃんの子供時代を知らない。

みーちゃんは何かというと、すぐにあたしにさわる。
地下鉄を降りるとき。
マグカップを受け取る時。
二人で街を歩くとき。
当たり前みたいに手を握ったり、ちょこっと指先に触れたり、腕を組めと自分のそれを差し出してきたりしてくる。
初めて一緒に遊んだ時からそうだった。
だから今まで、あんまり気にしたことなかった。
そういうもんか、とか、そういう人なんだな、とか、それくらいで。
でも聞いちゃった。
みーちゃん、本当は女の子に触られるのが嫌いだって。
みーちゃんに言い寄ろうとする子がそういうことすると、眉間に皺よせてすっごく嫌がるんだって。
そんでもって、みーちゃんのクラスの先輩に聞かれちゃった。
付き合ってるの、って。


そんな事があっちゃっちゃ、あたしゃ考えずにゃあおられぬ。
考えぬわけにゃゆかぬ。
けれども「らしい」答えなどきちんと出ぬ。
だもんでこちとら悶々としておる。
ありゃ何だ、と。
あいつはどういうつもりかと。
んでもって、あたしら一体なんなんだ、と。


今、あたしはあいつと二人っきり。
ナシつけてやろうじゃん、って乗りこんだ先で誘われたのだ。
暖かくなって、珍しい野鳥が見られるようになったから一緒に行こうよ、って。
かわいいかわいい小鳥さんがいるとなれば、そんなもん断る理由があるはずもなく。
のこのこついて来ちゃったはいいけれど、頭の中を情報源がぐるんぐるん。
ここは膝丈以上にも伸びたヤブの中、鳥が来るのをこっそり見てる。
肩や吐息が触れるほどにくっついて、みーちゃんはあたしと一緒にしゃがんでる。
ここに辿り着くまでにも、何度もみーちゃんにさわられた。
バスのタラップを降りるときには手を引かれた。
被った帽子が、枝にひっかかって曲がったときには、直すふりして耳を撫でやがった。
流れる小川を渡るのに、古くなった橋の上を歩いた時なんか、バランス崩しちゃ危ないってんで腰を支えられた。
みーちゃんは平気な顔して、せっせとあたしの世話を焼く。
今日のお弁当、あれだってみーちゃんが作ったのだ。
さっちゃん、おかかのおにぎり好きじゃんね、って。
おかかの中にゴマが入ってるのがいいんだよね、って。
ウインナなんか、タコさんどころかクジラさんだった。
(あたしは海の生きものも好き)

てめぇ、なんでそんなことまで知ってる。
おまえ、一体ナニ考えてる。

野鳥どころの話じゃないあたしは、ここぞとばかりにみーちゃんの顔をガン見する。
男くさい造形はしてない。
かと言って、少女漫画や乙女ゲーのキャラみたいってわけでもない。
カッコいいかよくないかって聞かれると、普通だ。
と言うより、そういう基準でみーちゃんのことを見たことがない。
だからよくわからないんだけど、あの先輩さんは、なかなかよかった。
付き合ってるの、って、あたしに聞いたあの先輩。
そこそこかわいくて、大人っぽい雰囲気もあって。
ははぁ、ああいうのに好かれるタイプなんだな、と、逆に学習したくらいだ。

あたしが観察する間も、みーちゃんはずっと上目づかい。
たまに木漏れ日に顔をしかめて、鳥の姿を追いかけてる。

「……さっちゃん、あそこ」

「……えっ」

「ほら、あの枝んとこ。あれ珍しいやつだよ」

視線を上に向けたまま、内緒話の音でみーちゃんが言う。
あたしはどこだか全然わからず、あさっての方向をきょろきょろしてる。
じきにひらめいて、みーちゃんの顔から、目線の先を追っかけてみる。
でも、そこには沢山重なり合った葉っぱと、間からさす光があるだけ。
目を凝らしてみても、それらしいものは全然見つからない。

「見えないよ、どこ?」

「しーっ、静かに。逃げちゃう」

「だってわかんないんだもん」

「ほら、あそこだってば。今なんかついばんでる」

「……ええぇ、どれぇ?」

「……しーーーーっ」

一瞬イラッと顔をしかめて、みーちゃんは自分の右手の人差し指を、あたしの唇に当ててきた。

おい光輝(みつき)、てめぇ。
もとい、この人差し指。
あんたなんつーことをしてくれる。
おなごの唇に簡単に触れていいと思っとるんか、こらぁ。

野鳥を驚かしちゃならぬ、ってんで大人しくしていたけど、内心憤慨しまくりだった。
張っ倒してやろうかと思ったね。
レディになんてことしやがる、ばか、って。

……うそ。
それは本当ではございません。
いや本当じゃないわけでもないんだ。
本当じゃないというか、本心じゃない、っていうか?
いやさ、そうも思ったんだけど、何でそんなん思ったかって言ったら、怒ったからじゃないっていうか、まあ怒るにも理由があった、みたいなね。
だってドキドキもするよ。
みーちゃんの手、すっごく恰好いいんだもん。
おにぎりもクジラさんウインナもたまごやきも白和えも、全部上手に作っちゃうみーちゃんの手。
あたしよりずっとマニキュアが映えそうな指してて、ちょっとささくれがあって掌が大きいんだ。
そんなのにそんなとこ、触られちゃったと思ってみてよ。
声なんか出ないよ。
身動きとれないよ。

だからあたしは、実際には息を止めて見てた。
みーちゃんの人差し指。
自分の唇に、軽く触ったまんまになってるみーちゃんのそれ。
ぎゃんぎゃん喚くことができたのは心の中だけだ。
そのうちだんだん、自分の唇が気になりだした。
リップクリームのほとんど乾いちゃってるそこは、多分少しだけかさついてるはずで。

「……どこ見てんのさっちゃん」

「……う」

「ほら、上だってば、あそこ」

硬直したあたしに気づいて、みーちゃんが苦笑する。
人差し指を唇から外して、そのまま木の枝を差す。
あたしは目線でその動きについていく。
指の先っぽのあたりを一生懸命見るんだけど、それでもやっぱり鳥っぽいものは見えない。
お日さまのせいでわかんないのかと思って、何度も目を凝らしてみる。
鳴き声は聞こえてんだ。
でもどこにいんのかわっかんないんだよね。

隣のみーちゃんがあたしの変顔を笑い、その息が耳と頬にかかる。
見かねてあたしの肩を引き寄せ、自分にもっと近づかせる。
あたしはうんと目を見開いて、ぐっとまばたきして、両目をこすってもう一度、じっと小鳥さんを探す。



…………いた!!!



思わずみーちゃんを振り向くと、目だけで「でしょ!?」って。
あたしはうんうん頷いて、もっかい、小鳥さんの方を向く。
ちっちゃくてずんぐりむっくりでかわいい鳥さんは、しばらくそこで「ちゅんちゅん」やってた。
何かついばんで、鳴いて、きょろきょろして。
こっちが見飽きた頃になって、バサッと飛んで、いなくなった。
詰めていた息を吐き出したら、タイミングと長さがみーちゃんと一緒だった。
はっと気づいてヒッとおののき、ヘッと笑われる。
見るのに必死で気づかなかったけど、みーちゃんとあたし、めっちゃ近いとこにいたの。
みーちゃんの方をみると、視界がみーちゃんの顔で埋まっちゃうくらい。
で、その距離のまんまみーちゃんと目が合っちゃったんだ。
ちょっと待てどうしたもんだこりゃ、ってな心情はあからさま。
で、みーちゃんが顔を逸らして吹き出した、ってわけ。
あたしは急に恥ずかしくなって、顔を手でぱたぱたあおいだ。
へろへろになって、でも何とか落ち着こうとしているのに、みーちゃんはあたし見てまだくすくす笑ってる。

「……困らせるつもりじゃなかったんだけどなぁ」

「……」

「さっちゃんさぁ、もうさぁ、もう……」

言いながら、笑いながら、みーちゃんの表情に笑みとは違うものが混じっていった。
あたしはおもちゃにされた気分で、けど、なんかみーちゃんの方が困ってるように見えて。
ばくばくうるさい心臓の面倒もうまく見きれないまま、焦れる。
振り回されてんのはこっちなのに、人のことかき回しといてなんでそういう顔するかな。
そりゃ察するでしょ。
みーちゃんの言わんとしてることなんか。

あたしはうんと立ち上がって、お尻についた土や葉っぱを払った。
一拍遅れてみーちゃんも立ち上がる。
同じようにお尻を払っているから、それが終わるのを見計らって声をかけた。

「ねぇみーちゃん」

「うん? ……!」

通常状態に戻りつつあったテンションがまたこんがらがるみーちゃん。
そうだよねぇ、自分より背の低い女の子に、胸倉掴まれるなんて思わないじゃんねぇ。

あたしは恥ずかしいのを目いっぱい我慢して、みーちゃんの顔を自分に近づけた。
みーちゃんはいつもよりも目を見開いて、何事か、ってな顔。
見つめ合うのはアレだったので、視点をみーちゃんの唇に定めた。
少しあいたそこから、つるんと並んだ歯が見えた。

「あたし、男らしくない人キライ」

あるんでしょうよ、あんた。
「したごころ」ってやつがさ。
あたしにとって嬉しい類のもんだかどうだか、わかったもんじゃぁないけれど。

それ以上の言葉を言わないあたし。
みーちゃんの唇がさっちゃん、と動く。
不思議なほど抑揚がなくて、あたしは目線を上げて確かめる。
みーちゃんのふたつの目。
黒い瞳の中いっぱいに、据わった顔したあたしが映ってる。
早くやりやがれこのやろう。
あたしゃせっかちなんだ。
思わせぶりなことして女心はかったりするような、臆病でとろっくさい男なんざ置いてっちまうよ。

なんぼほど啖呵のひとつでも切ってやろうかって頃になって、ようやく、みーちゃんの左腕があたしの腰を引き寄せた。
右手が毛先をかきわけて、耳と顎をくるむ。
あたしは掴んだみーちゃんの胸倉を、そのまま自分に向かって引っ張った。
みーちゃんは逆らわない。
じきに、みーちゃんの目の中のあたしが見えなくなった。
かわりに、みーちゃんの心臓の音が身体に響いてきた。
すげえのな、人の身体って、服越しでもぬくいのね。


足元のあたしとみーちゃんの影は、もう二人分のそれには足りないような形になっている。
頭の上で鳥がないた。
ふにゃふにゃの感触に脳みそが吹っ飛びそうになっている、あたしのことをからかって。


(SS・R18指定)おにくのいろ、おはだのいろ

この作品は性描写を含みます。
苦手な方、18歳未満の方は、閲覧をご遠慮ください。





春の新作なのだと言って、お姉ちゃんがリップグロスを見せびらかしに来た。
デパートの化粧品売り場で買ったのだとかで、パッケージにはいかにも高そうなエンブレムが入っている。
いいでしょ、と自慢しながら、私が座っている勉強机の隣、姿見に向かってそれを試し始めた。
複素数平面の問題がなかなか解けなかった私は、とくに返事もしないで放っておいた。
何とか言いなさいよ、と、強い口調で言われてようやく振り向く。
グロスは淡いようで発色がよく、お姉ちゃんの唇をぴかぴかに光らせている。
新鮮そうでいいね、と感想を言うと、お姉ちゃんは馬鹿にしたように鼻で笑った。
私がスーパーに並んでいる、お肉の切り身を想像したのがすぐにわかったらしい。
そのタイミングで、隣の部屋で着信音。
あ、トーヤだ、と、浮かれた声音を一つ残し、ようやくお姉ちゃんは出ていった。

トーヤというのは、お姉ちゃんの今の彼氏の名前だ。
厳密には、今付き合っている何人かのうちの一人の名前、かもしれない。
お姉ちゃんは美人で、恋愛っぽいことや、エッチなことが好きなのだ。
五歳年下の私はと言えば、残念ながら、異性にもてはやされるような容姿はしていない。
根っからの「女」であるお姉ちゃんにとって、それはとっても都合のよいことだったらしい。
事あるごとに自分と私を比較して、自分の方が優れてる、っていうことばっかり言ってるから。

お姉ちゃんは私のことが気に入らない。
私が親や先生に褒められるのが気に入らない。
私に仲良くしている友達がいることが気に入らない。
私が何か、自分の目がねにかなうようなものを持っているのが気に入らない。

お父さんとお母さんの知らないところで、意地悪をたくさんされた。
いちいち覚えているのが面倒なので、最近は無視するか、気にしないことにしている。
それでも先週、エナメルのハンドバッグを取られたのは腹が立った。

あれは、前からずっと欲しいと思っていたものだった。
お小遣いをためて、友達と約束して、アウトレットでやっと買った。
見つかると何を言われるかわからないから、クローゼットにしまっておいた。
なのに、どうしてわかったのだろう。
週末のデートで使うんだって、勝手に私の部屋から持ち出していたのだ。
大事にしているからだめだって言ったのに、あんたより私の方が似合う、だって。
最初はお母さんも叱ってくれた。
妹のものを取り上げるなんてやめなさい、って。
なのに、姿見の前でお姉ちゃんがハンドバッグを持ってるところ見て、「あら、いいわね」だって。
なしくずしに、ハンドバッグはお姉ちゃんの手元にいってしまった。
可哀想だからって、お父さんがあとでこっそり一万円をくれた。

結局いつもそうなのだ。
「お姉ちゃんの方が似合うもの」は、全部わたしの手元からなくなっていく。
それで、散々使い古してボロになったころに、ごみ箱がわりに私の部屋に投げていく。
そのくせお母さんたちにはこう言うのだ。
「私よりマユのことばっかりかわいがってる」って。
呆れているお母さんは、大して何も言ってくれない。



トーヤさんにその話をしてしまったのは、多分、微妙に溜飲が下がりきってなかったからだと思う。
半裸で隣に寝そべって、頬杖をついたトーヤさんは、ああ、ぽいぽい、と笑った。
「ああ、ぽいぽい」=「ああ、アイツならやりそう」。
で、「みひろはやたらお姫様だからな」だって。
さすが彼氏だと思った。
お姉ちゃんのことを、よくわかっている。

あの日のお姉ちゃんの言いぐさを思い出して、何となくむくれてしまっていると、トーヤさんはにやけた顔のまま、小さく私からキスを盗んだ。
気にするなって、マユちゃんの方が若いんだから、だって。
恥ずかしくなった私は服を着たかったけど、まだだめだって腰を抱えられて、ベッドの中に連れ戻された。
もうちょっとだけ触らして、と、背中から抱きしめたまま、トーヤさんはなんとなく胸を揉んでくる。
トーヤさんの手の奥で、心臓が興奮している。
トーヤさんとこういうことになってからしばらく経つけど、なんだか、まだ慣れることができない。


「俺、マユちゃんとももっと仲良くなりたいんだけど」

トーヤさんの最初の口説き文句はこれだった。
どういう意味か分からなかったので、適当に返事をしておいたような気がする。
そうしたら、最近できたショッピングモールに行かないか、って誘われた。
お姉ちゃんの都合がつかなかったんだそうだ。
行ってみたいところだったので、誘いに乗った。
その日は意外に楽しく過ごせて、それでその後も何度か会うようになって、いつのまにかこうなっていた。
トーヤさんの本名さえも知らないうちに、あれよあれよという間に、私は「初めて」をトーヤさんに盗られていた。
最初のうちは痛かったけど、四回目で頭が吹っ飛んだ。
誰にも見せたことのないようなとんでもないことになってしまって、どうしようと思った。
慣れるとみんな似たようなもんだよ、と、顎の汗を手の甲で拭いながらトーヤさんが言っていた。
「ふしだら」は気色悪くて気持ちいいことなんだって、それでようやくわかった。
色々と合点がいった私は、事が済んだ後でトーヤさんに尋ねた。
若い子といやらしいことがしたかったんですか、って。
トーヤさんは変な笑い方をして見せただけで、少し離れたところで渋い匂いの煙草を吸っていた。

家族が思っているよりもお姉ちゃんがふしだらだってわかったのは、これがきっかけだった。
こういうことを繰り返すうちに、トーヤさんが教えてくれたから。
お姉ちゃんには何人も「カレシ」がいて、その中にはお父さんと同じくらいの歳の人もいるらしい、って。
お似合いのカップルだったんだな、と思った。
お姉ちゃんと付き合いながら、私とこんなことを平気でするトーヤさんだって、私からしたら十分「そっちの世界」の人だもの。


脚の間が熱を持って潤み始めた頃、トーヤさんがそこに入った。
快感、って、とてもへんなものだ。
身体の力が抜けるようなのに、逆に硬直するようでもあるから。
トーヤさんは繋がったまま身体を起こし、私の脚を大きく開かせて、鏡でそこを見せた。
女の人は、老けるとここの色がくすむんだそうだ。
心許ない毛足の向こうに鮮やかな色味が見えて、頭にどっと血がのぼった。
色々我慢したくて、無理やり、どうでもいいことを考えた。
くすむという言葉から連想したのは、お姉ちゃんがいつも鏡台に散らかしている、高そうな化粧品のこと。
そばかすが目立つようになったとかって、リキッドファンデーションを小鼻になじませながらぼやいていたっけ。
若さなんて、どれほどの価値があるものか。
だれだって年は取るものだし、経験とかがあって落ち着いている大人の方が、青臭いよりもずっと格好いいのに。
それから、それから……ああ、もう。

生意気。

少し怖い声で呟き、私のささやかな抵抗を吹っ飛ばしたのは、やっぱりトーヤさん。
反応がかんばしくなかった私をいじめるのに、とんでもないところを触り始めたのだ。
きもちいいでしょ、と、耳元で囁かれて悲鳴が出た。
私は観念して目を閉じた。
直前に見たのは、トーヤさんにむき出しにされた自分のそこ。
体液にまみれてぬかるんだ「私」は、あの新作のグロスよりも、もっと鮮やかで濡れた色をしていた。



しばらくして、お姉ちゃんがトーヤさんの話をしなくなった。
会わなくなったということなのだろう、トーヤさんが教えてくれた通りだった。
お姉ちゃんは、「一人と終わるとまるで最初からいなかったかのように、そいつの話をしなくなる」って。
別れたの、と、トーヤさんに聞こうと思ったがやめた。
どうでもいいことだった。

お姉ちゃんの口からトーヤさんの名前が出なくなってからも、私は何度かトーヤさんと会っていた。
厳密には、「トーヤさんと寝ていた」。
年端もいかない相手をたぶらかしている罪悪感があるようで、たまにトーヤさんは、私の身分じゃ手が出ないようなところに連れて行ってくれた。
何か欲しいものはないかと聞かれたとき、形が残るものはいつお姉ちゃんに見つかるかわからないから困る、って答えたら、そういうことになった。
ただひとつだけ、どうしても欲しくておねだりしたものがある。
それは、トーヤさんが持っていた懐中時計。
鷲だか鷹だか、なんだか格好いい彫刻がされているやつ。
手巻き式で、一日一回ねじを回しておかないと、すぐに止まってしまう代物。
大したものでもないよ、と言いながらも、トーヤさんは私にそれをくれた。
お姉ちゃんにばれないように、私はそれをいつも持ち歩いていた。
学校の通学カバンの内側、ファスナーつきのポケットの中に入れて。
それでもばれてしまったのは、私が学習塾に行っている間に、お姉ちゃんが私のカバンをあさったから。

家に帰るとお母さんとお姉ちゃんが、私の部屋で怒鳴り合っていた。
見覚えのある懐中時計が出てきたことに怒ったらしい。
お姉ちゃんは私の部屋を荒らしまくっていて、どうやらお母さんはその惨状を見かねたようだった。
いい加減にしなさいとお母さんに叱り飛ばされながらも、お姉ちゃんは私に、般若みたいな顔をして詰め寄った。
手にはトーヤさんの懐中時計。
昼ドラみたいなセリフを沢山言われた気がする。
人のものに手を出す泥棒猫だの、なんだの。
別に付き合ってるつもりはない、と答えたけれど、お姉ちゃんはすごい剣幕で嘘だと決めつけた。
ならどうしてこんなものを持ってるんだ、って。
欲しいって言ったらくれた、って答えたけど、また嘘だって大声を上げられた。
この懐中時計は、どんなにお姉ちゃんがトーヤさんにねだってもくれなかったんだと。
私は呆れてお姉ちゃんに言った。
自分が欲しいって言えば何でも手に入ると思ってるの、と。
お姉ちゃんは顔を真っ赤にして、私の頬をぶった。
お母さんがお姉ちゃんの名前を呼んで叱った。
お姉ちゃんはお母さんの方を見もしないで、髪の毛を振り乱して私を睨んでいる。
頬は痛かったけど、なんだかとても気持ちがよかった。
気が大きくなった私は言ってしまった。


似合えば盗ってもいいんでしょ。
お姉ちゃんそうやって、なんでも私から横取りしてきたじゃない。
あのハンドバッグ、今どうしてるの。
私がずっと欲しかった、大事にしてたあのバッグ。
欲しいものなんか買えばいいじゃん。
綺麗なんだから何人でも男作ればいいじゃん。
どうしていつも私から盗るの。
人から盗るってことは、盗られるってことだって、なんで思わなかったの。


激昂したお姉ちゃんは、また私をぶとうとして、振りかぶったところをお母さんに止められて、逆にお母さんにぶたれていた。
お母さんがそういうことをするとは思わなくて、びっくりしている間に、お姉ちゃんは金切り声をあげて泣き出した。
泣きながら部屋に戻り、あのバッグを手に戻ってきて、それを私に投げつけた。
バッグはあんまり使われていなかったようで、きれいなままでほっとした。
間髪入れずにトーヤさんの懐中時計も投げつけられた。
キャッチするのがこわくてよけたから、時計は引き出しの角にぶつかってしまった。


あんな男くれてやる。
どうなったって知らないから。


捨て台詞をぶつけてくるお姉ちゃんの顔は、ファンデーションがはげてひどいことになっていた。
まだらになった肌色の奥に、そばかすが見えた。
他にもなんだかわけのわからないことをひとしきりわめき、今度こそお姉ちゃんは私の部屋からいなくなった。
冷やしておきなさい、と、一言だけ私を心配し、お母さんはお姉ちゃんを追いかけていった。
床に投げ出された懐中時計は、ぶつかった衝撃のせいか、ねじを巻いても動かなくなってしまっていた。


後日、時計を壊してしまったことをトーヤさんに謝った。
事の顛末を話すと、気にしなくていいと言って、残念がる私にパフェをおごってくれた。
甘ったるい生クリームを舐めながら、トーヤさんに言っていた。

馬鹿だよね、お姉ちゃん。
私だって、女なのに。

きっと、私はとても意地悪な顔をしていたんだと思う。
トーヤさんが、面白ものを見たような、なにかを発見したときのような表情を作ったから。
ちょうどいいと思って、言葉に続けて質問を二つした。
どうして懐中時計をお姉ちゃんにはあげなかったのか。
お姉ちゃんとは、いつ別れたのか。
トーヤさんはまた、あのよくわからない笑みを浮かべただけだった。
でもその日、トーヤさんは避妊具をつけてくれなかった。
私はこわくて不安で、なのに熱くて気持ちがよくて、攻められながらものすごく大きな声を出した。


トーヤさんとの付き合いはしばらく続いたが、一年たって、実家から出て一人暮らしをし始めた頃から連絡が取りにくくなった。
こちらから接触を試みても、トーヤさんが返信をくれなくなったのだ。
どうしたのだろうと思っていたが、あんたも年頃なんだから、と、お母さんに化粧品を買いに連れて行かれた時に、何となく理由を悟った。
店員さんに、ファンデーションとリップグロスの色味を選んでもらっている時。
どことなくトーヤさんに似た人が、制服姿の女の子を連れて歩いているのを見て。

お会計を済ませてから、スマートフォンからトーヤさんの連絡先を消した。
隣でお母さんが、最近みひろがどうのこうのと喋っていた。

(SS)恋にならないで

卒業式の予行演習が終わったのに、本田が掃除場所にいなかった。
いつもなら廊下のモップ掛けしながら、たまにモップにまたがって「やっぱとべねぇかなぁ」とかやってるのに。
もしかして、と食堂に行ったら、あいつは山盛りのカツカレーを頬張ってた。
片足膝に乗っけて、ものすごく行儀がわるいのに、調理場のおばちゃんたら「けいちゃん、ほんっとに美味しそうに食べるねぇ」だって。
そりゃそうだよおばちゃん。
カツ、揚げたてじゃん。
大鍋、ストーブにのっけて、午前中からくつくつ煮込んでたんでしょ、カレー。
誰が食べたって、こんなの美味しいにきまってるよ。
それにあいつも心得たものなのだ。
合間に「おばちゃぁん、うまーい」なんてにこにこして見せたりしてさ。

明け方の寒さで寝坊して、朝ご飯食べそびれてたわたしには、ムカつくほどに目の毒だった。
そこをぐっと我慢して、足早に近づく。
こっちが話しかける前に、本田はわたしに気が付いた。

「おう」

「…じゃねぇよ、あんた掃除サボって何してんのよ」

「いや、腹減ってさ」

「あたしだって減ってるわよ。
てか、みんなこの時間お腹減るわよ」

「あー、今朝めっちゃ寒かっただろ?
俺寝坊してさー、朝飯食ってないんだ」

「だからってサボっていいことにはならんだろうが」

「……12時8分。リハのあとは掃除して、ホームルームなし。
掃除終わりは12時5分。はいー今もうガッコ終わってるー」

腕にはめたFossilの時計の針をスプーンで指し、本田はまたカレーをかっこみだした。
カツの衣が口の中でさっくりと鳴っている。
唇の左端には衣のかけら。

「……なに? おまえも食う?」

「いらん!」

「あ、食いかけはイヤか。
おばちゃーん、カツカレーもういっこ頼んでいーいー?」

「いいよ、ご飯普通盛りでいいの?」

「あー、大盛りで! こいつ超腹減ってるって…」

「普通盛りで! てかあんた、勝手になにしてくれんのよ!
あたしいま財布ないわよ」

「いいよ、俺のオゴりで。後で返せよ」

「それ奢ってないし。……って、だからそういう問題じゃなくて!」

「いーじゃんいーじゃん、もう掃除時間過ぎちゃったんだし。食おうぜ、な?」

あまりのお話にならなさ加減に、わたしは大げさにため息をついた。

おばちゃん自慢のカツカレーはほどなくしてできあがった。
下手すると鼻息まで白く濁りそうなほどに今日は寒い。
体育館で行われた予行演習は、灯油が切れていたとかでストーブもたかれることがないままに終わった。
程よい辛さのカレーと、からっと揚がったカツは想像以上に美味しく、冷えた身体にしみわたった。
スプーンを口に運ぶうちに、なんか色々、もうどうでもよくなった。

「……早いねぇ」

「何が」

「卒業、来年はうちらじゃん」

「ああ」

「あんた、進路とかどうすんの? あのあと結局どうしたの?」

進路希望提出期限日の放課後。
本田は担任の先生と、進路指導の先生の両方から呼び出しを食らっていた。
進路のことで話がある、って言ってたから、きっと、書いた希望に問題があったんだろう。
後頭部をぽりぽり掻きつつついてく本田を挟んで、右に担任、左に進路指導。
まるで連行そのものだった。

「んー……」

わたしが返答を待つ間に、本田はカレーの最後の一口を食べ終わる。
おもむろに水を飲み、頬杖をつく。

「考え直せってさ。だから、一応もっかい書いた」

「なんて?」

「あの美大、おまえに言ったあの大学」

「はぁ!?」

「いや、今更驚くところじゃねぇじゃんそこ」

まさか本気だったとは。

「だって、あんた、ここどこだと思ってんの?」

「県立松ノ上高等学校」

「じゃなくて。進学校に通っといて美大行くとかないでしょ、っつってんの。
先生にもそう言われなかった?」

「うん、折れた、ってさ」

本田はなんとも、場違いなほど神妙と言うか、大真面目な顔をしている。
わたしの呆れに気付いているのか、いないのか。


本田とはここに入学してから知り合った。
1年の時から、同じクラスだった。
そこそこ頭よくて、数学と生物が得意で。
ここは地方の県立高校のわりにそこそこ偏差値が高い。
指定校推薦枠もあるから、学校の成績さえよければ有名私立に行くのも可能だ。
本田の通知表は、全体的に私よりもよかった。
ちょっと頑張れば、名の知れた大学への推薦入試だって受けられたのに。

成績だけでなく、本田がものすごく絵がうまいと知ったのは最近のことだ。
あれは先週の土曜日だったか。
行きたいとこがあるからついてこい、っていわれて。
ついでに弁当作れ、って言われて。
そんなこと言われたの初めてだったから、柄にもなく楽しみになっちゃって。
朝からおにぎりとかたまごやきとか、すごい頑張っちゃって。
連れてかれた先は、隣町の森林公園の中でも一番閑散とした一角。
もう木の葉っぱなんか散りきっちゃってて、他に見るもんもなんもないようなとこで。
そこにある切り株のひとつに、本田は指定席だとかって座っちゃって、メッセンジャーバッグからスケブと、高そうなペン取り出して。
わたしのことなんてほっといて、黙々と絵を描き始めたのだ。
たまにおにぎり頬張って、「あ、たらこ」とか呟いて。

体よく「弁当女」にされた私は、仕方がないから別の切り株に座って、延々スマホでパズルゲームして遊んでいた。
何もない2月の屋外はヒマすぎて寒すぎて、ちょっとだけベソかきたくなった。
ひとりでできることは思いつく限りやって、もう限界って頃になって、ようやく本田はわたしを振り返った。
こんなに時間が経ってるとは思わなかった、って、カイロ握って震えてるわたしを見て本田は笑った。
そりゃあもう強く強く思ったものだ。
こいつ、ぜってー彼女できねーわ、って。
描きあがってから見せてくれた絵は、ちょっとすごかったけど。

本田が描いていたのはそのまんま、葉っぱが散ってハゲあがっちゃった木々の絵だった。
枯れかかった木は厳かで、その後ろの空は大きくて冷たくて、澄みきった空気の匂いがこっちにまで届いてきそうだった。
わたしはそっち方向はからっきしで、だけど、ちょっとその辺のカブレた奴の自己満足、ってレベルじゃなかった。
一度、自分で作ったのだとクラスメイトに同人誌を見せられたことがあったのを思い出した。
あれがお子ちゃまのお絵かきに思えてくる程度には、本田の絵は本格的で、すごかった。

「でも、どうすんの?」

「ん?」

「美大。行ってどうすんの。卒業したらあんた、何になりたいとかあんの?」

「……うん……」

一応相槌は打つものの、本田はその先を言いよどんだ。

「なによ、なんかあるから進路指導やら担任やら口説き落としたんじゃないの?」

「ん? ん……まぁ、あるというか、ないというか……」

「え、ないの?」

「いや、ないっていうか、わからんっていうか……」

「いやこっちこそわからんわ」

「あー……その、なんつーの?
とりあえず、ずっとやってられそうなこと続けたほうが、いいかなーっていうか」

「あん?」

「俺さ、絵描くのが一番好きなの。
絵だったら、うまく描けないとか、俺よりもっと上手い奴がいるとか、そういう壁にぶつかっても、それでも続けてられるって思ったわけ。
……想像できねんだよなぁ、普通に大学出て、普通に、通勤カバン持って毎日働いてるオヤジになってる自分がさ」

「でも絵じゃ食ってけなくない?」

「まぁな。ま、そのあたりはまたそのうち考えるわ。
で、そういうお前はどうなの?」

「あたし? あたしはねぇ、栄養士さんになりたいんだ」

「おまえ食い意地張って……」

「やかましいわい」

絵を描きたい。
音楽がやりたい。
文章書くのが好きです。

うちの学校の「勉強できないやつ」が言い出す三大ドリームだ。
上の2つを言うのは大体がチャラい連中。
最後のひとつはちょっと特殊で、どっちかというと暗くてオタクくさい奴らが多い。
彼らは彼らなりにガチらしくって、大学の文学部に行きたがってるらしい。

偏見を承知で言うが、うちの勉強できないやつが語る「夢」は、半分以上が絵空事に聞こえる。
もちろん、そんな連中ばっかりじゃない。
でも、クラスで幅を利かせてる奴らと、絵空事を語る奴らは一致していることが多いというのが、わたしの印象だ。
俺まだ若いし、とか、あたし才能あるし、とか、本人だけが、過剰に余裕や自信を持ってるように見える。
わたしも勉強はできる方ではなかったけど、現実味のない将来の夢を語りながら、放課後にはゲーセンやマクドナルドに入り浸ってる連中と、同じにはなりたくなかった。
栄養士、という進路希望も、それなりに、自分で妥当なところを考えたつもりだ。
わたしはだから、びっくりしていた。
わたしよりもずっと勉強のできる本田が、その「絵空事連中」とおんなじようなことを、本気でしゃべってるから。
そんでもって、本田の言い分に、ちょっと、ほんのちょっとだけだけど、一理あるような気がしてしまったから。

「三年生かぁ。なりたくねええぇぇ」

私がカレーを食べ終わる頃、本田がそう言いながら、ふにゃふにゃと机に突っ伏した。

「なんで」

「だってクラス変わるだろ」

「いいじゃん、楽しみだけどあたしは」

「……あー、そうだ、思い出した。おまえ、6組の工藤って子知ってる?」

「工藤さん? ……あー、選択授業で一緒だわ。かわいいよね」

「俺さぁ、あの子に誘われてんの。
今度、一緒に映画見に行きませんか、って」

「……う、うん」

「で、聞かれたわけ。おまえのこと。付き合ってるんでしょ、って。
見たんだってさ。俺らがパピコ分けてんのとか、俺の教科書におまえの字で落書きがあったとか。
……あ、おまえの教科書に、俺の落書き、だったかも」

「……」

「付き合ってないんだったら、来てください、ってさ。
私と、付き合ってください、だってよ。おまえどー思う?」

おまえどー思う?のところになって、ようやく本田が顔を上げた。
真面目なような、笑いをこらえてるような、何か隠してるような、そういう表情。
最初に言っておく。
わたしは、こいつの、こういうところが、大っっ嫌いだ。

本田はずるい。
こいつがクラス替えしたくない理由くらい、わかってる。
同じことは、わたしだって思ってる。
でも、本田はそれを言わない。
わたしにこうしてカマかけるような真似するくせに、自分から、自分の気持ちを喋らない。
わたしはわたしなりに、自分の気持ちはあらわしているはずだ。
だから誘いに乗って森林公園に行ったし、お弁当だって一生懸命作った。
ほったらかしにされたって、怒らなかった。
あの日、本田は私をほっといたことを謝らなかった。
けど、ラフスケッチの中、暇つぶしに側転してるわたしの絵があったのを、こっそり見た。
だからいいことにした。
他の誰じゃなくて、わたしを誘った、ということが、そういうことなんだ、と思って。

本田は、それをわかってるんだろうか。

黙りこくったわたしを、本田はじっと観察している。
わたしはいたたまれなくなったが、無視するわけにもいかなくて、でも、どう答えるのが正解か、わかんなくて。

「あんたはどうしたいのよ。行きたいの? 行きたくないの?」

結局、一番の不正解を口にしてしまった。

「んー、微妙。あの映画、おまえと見たやつだし」

「え、なんだっけ」

「『プロメテウスの涙』」

「あー、あの超つまんなかったやつ」

「工藤さ、あの映画の監督大好きなんだって」

「……へえ」

緊張は、するするっと収まった。
本田の返答と、続く会話が普通だったので。
かえってそれが癪だった。
ああ、今わたし、本田に手玉にとられたんだな、って。
悔しくて、しんどく思った。


わたしの志望校は近畿地方。
本田は関東。
どうなろうとなるまいと、来年の今頃には、わたしたちは離ればなれになる。


気持ちはとっくに決まってる。
当たり前だ、本田と恋なんかしたくない。
寂しい思いはしたくない。
それが、すべてだ。

「あんな映画じゃ間がもたねぇよ。一緒に行く相手がおまえならまだしも」

「え、なにそれ」

自分の脳みその世界で本田を罵っていたわたしは、奴のセリフをうわの空で聞いていた。
このほんのちょっとの間に、とても疲れたような気がしていた。
反射的に真意を聞き返してから意味を悟ったのだけど、ちょっとばかり、遅くて。

「……はぁ。だから! つまりだな!」

ばくっ、と心臓が跳ねた頃には、オーバーリアクション気味の本田の頬が染まっていた。
途端に鼓動がうるさく響く。
待てこの馬鹿本田。
なんだその顔は。
なんだってそんな顔でわたしを見る。
やめろ、まじで。
ほんと、やめてってば。

心に喉があるとしたら、その奥に小骨が刺さっている。
気持ちに手のひらがあるとしたら、その指先に棘がうずまっている。

もうちょっとだけ待って。
恋になんか、ならないで。


もう嘘か本当かもわからないことを願いながら、わたしは本田の言葉を待った。
追い詰められてしまったわたしは、とっさに助けを求めてあたりを見回した。
調理場のおばちゃんがカウンターに身を乗り出し、目をキラキラさせてこっちを見ていた。

(SS)ダフネの王、あるいは道化者の死


昔々、ある国にとても人気のある大道芸一座がおりました。
座長の夫婦には息子と娘が一人ずつおりました。
中でも大層評判であったのが、座長の息子でした。
座長の息子は道化者なのですが、人まねや曲芸が上手く、通りがかる誰をも笑顔にしてしまうのでした。
誰もが息子に笑わせてもらいたがるので、息子はいつも道化者の恰好をし、顔をおしろいで真っ白にしています。
おかげで、息子の素顔を知っているのは、家族のほかにはいないほどでした。

一座は誰もが陽気で明るく、街の人気者でしたが、幸せは長くは続きませんでした。
座長の家に誰かが火を放ったのです。
息子はどうにか逃げ出しましたが、座長とその妻、十五になる妹は助かりませんでした。
その上不幸なことに、息子は放火の犯人と間違われてしまったのです。
街の誰もが、座長の息子であることに気づかず、外から来たよそ者だと思ったためでした。


俺は座長の息子だ、何かの間違いだ。


繰り返す彼を、警吏たちが引き連れ、馬車に押し込んで連れて行きました。
自分はこれからどうなるのだろう。
小さく身体を丸めておびえる彼が連れて行かれた先は牢獄ではなく、隣国の王城。
命からがら火から逃れたままの姿の、彼の前に現れたのは、なんとその国の王様でした。


おまえは隣の国でも名の知れた道化者だそうだな。
この宮廷は気の滅入ることばかりで、私はこの頃笑った覚えがない。
これからは私を笑わせるために働いてはくれないか。
もしも受け入れてくれるのなら、この王城に住まわせてやろう。
ただし、決して私の許した場所以外には行ってはならない。


目を白黒させながらも、彼はここに至る顛末を語りました。
着せられた濡れ衣を晴らしたいと訴えると、王様はそれに、鷹揚に頷きました。
誤解がとけるようにとりはからうかわりに、と、あらためて王城勤めを求められます。
仕方なく、彼はそれを受け入れました。


かくして大道芸一家の看板芸人であったその男は、「王様のための道化者」となりました。


道化者は王様に、おしろいと化粧道具、王宮内にある余った布の切れ端を用意するようお願いしました。
渡された布を縫い合わせて道化の衣装を作った道化者は、それを身にまとい、鏡の前に座りました。
おしろいで顔を隠し、大げさに口紅を塗り、目元に涙のしるしを描きます。
すすけた顔とボロを着ていた青年が、見事に道化へと変身しました。

自分が悲しみに囚われているうちは、人を笑わすのは難しいものです。
ですが、なりふりかまわず働くことで、悲しみが癒されるということもまたあるのです。
道化者は目いっぱいにおどけ、曲芸を披露し、王様や、その周囲の者たちのしぐさをまねました。
王様は大いに喜び、道化に立派な衣装を用意しました。
王様を喜ばせるたび、道化には大量の新しい衣装が与えられました。
ひと月もする頃には、道化の部屋は衣装箱でいっぱい。
これ以上増えると部屋が衣装で埋まってしまいます。

あるとき道化は王様に言いました。
もう新しい衣装はいらない、と。
褒美に不満があるのかと返され、道化者は続けました。


王様、熟練の道化者は、ものや身なりで人を笑わせるのではございません。
わたくしが人を笑わすには、わたくしが何者であるかを隠すことができさえすればそれでよいのです。


王様はこの言葉にいたく感心し、道化者に、これからはどんな褒美がよいか尋ねました。
道化者はひとりぼっちの身の上ですので、友達がおりません。
道化者は、王様に友達がほしいとお願いしました。
王様は目を丸くした後、にっこりと笑いました。


友がおらぬのは私もだ。
我々は、おんなじであるな。


その日の王様の笑みは、道化が見た中でも特別にすばらしいものでした。
自分の芸でも、王様があんなふうに笑ってくれればいい。
それからは道化者は、より一層、王様に笑ってもらえるようにつとめました。
道化者の芸に満足した日には、王様は贈り物として、自分の話をしてくれました。
中には道化者が聞くにはあまりにも大きな物事もありました。
おそろしく、おぞましい話もありました。

そのきらびやかさに反して、富ある場所というのはなんと醜いのだろう。

ときに道化者は、王様の話に大変な嫌悪を感じることもありました。
例えば、王様の前では恭しく振る舞う家臣が、裏では口汚く王様を罵っていること。
王様はそれを知っていてなお、素知らぬふりで家臣の慇懃さを受け流していること。

どんなことがあっても、政がかかわると顔色ひとつ変えない王様のことが、道化者はたまに怖く思えました。
けれども決して、それを王様には言いませんでした。
王様から聞いた話も、道化者は誰にも他言しませんでした。
王様は、道化者の大事な友達だったからです。

王様は、道化者とおなじくらいに、さびしくて、ひとりぼっちでありました。
王様は未だ独り身で、家族がおりませんでした。
父親が亡くなったことで王位につき、母親は、それよりもっと前に亡くなったのだそうです。
父親には側室と、側室との間にもう一人息子がいるとのことでしたが、道化者は詳しく話を聞きませんでした。
自分の父親に、自分の母以外の妻がいると考えたとき、なんだがいい気分がしなかったからでした。
それでも王様は、誰もが健在であった頃の思い出を、道化者に話してくれました。
在りし日々を懐かしむ王様の顔を見ていると、道化者はどうしてか、家族を亡くした日の夜のことを思い出しました。


きっと王様も、何か癒されないかなしさを持っているのだろう。
それを、夜の闇にゆだねて眠ったことがあるのだろう。


王様の痛みのようなものを垣間見るたび、道化者は、どんな言葉を返すべきかわからなくなりました。
慰めるのもおかしいし、励ましたり助言をするなんてもってのほかです。
うんとうんと考えた末、道化者はこう言いました。


王様、わたくしはいつでも、王様のお傍におります。


顔をほころばせながら頷いてくれる王様のことが、道化者は大好きでした。



ところで、道化者の毎日は案外退屈なものでした。
王様との約束で、王城の敷地内をみだりに歩き回ってはいけないことになっています。
とはいえ、王様も忙しい身。
道化者と遊んでばかりもいられません。

柔らかな軟禁状態がほとほと飽きた道化者は、得意の変装をして、こっそり城内を探検することにしました。
先々ではいろんな身分の人間がいて、それぞれがいろんな噂話に花を咲かせています。
王様から聞いた通りの話、尾ひれ背ひれがついた話。
中には王様のことをよく思わぬものたちの、謀めいた内緒話さえありました。
なんでも、病気になったとしか思えぬよう、王様の食事に少しずつ、薬を混ぜてやるとかやらないとか。

怒った道化者は、戻ってからその話を王様に告げました。
「やぶへび」とはこのこと。
勝手に城内を歩き回っていたことがばれてしまい、道化者は王様に、大層怒られてしまいました。
みるみるうちに、しょんぼりと落ち込む道化者。


約束を破ったことを、どうかゆるしてください。
ですが聞いてしまった以上、王様に害なすもののことを伝えずにはいられなかったのです。


これほど王様を怒らせてしまっては、もうここにはいられない。
城を出ていこうとする道化者でしたが、王様はあわててそれを引き留めました。
そして、そもそもおまえから自由を奪い、限られた場所に閉じ込めた己が悪かったのだと、道化者に謝ります。


私はおまえが心配だっただけだ。
とっておきの場所に案内するから、どうかここに残ってくれ。


これからはいつでも来てよいぞ、と言われながら連れられた先は、王様だけしか入ることの許されない庭でした。
王様の好きな木々や花が植えられ、どうやっているのか、小さな泉まであります。
気持ちよく整えられたそのさまはどこか、故郷にある、道化者の好きだった場所に似ていました。
月桂樹や沈丁花があること、日差しの入り方、揺れる木や葉の香り。
ふいに、亡くなった家族を思い出し、道化者は泣きそうになりました。
王様がそれを見て、どうしたのだ、と道化者に尋ねます。

故郷が恋しくとも、あんな騒ぎの後では、いくら誤解が解けたところでもう帰れまい。
それに、ここを離れたら王様はまたひとりになってしまう。

道化者の様子をどう思ったのか。
王様は月桂樹をもてあそびながら、聞かせるともなく、こんな話をしました。



昔、ある国の王子には恋人がいた。
黒髪の美しい乙女で、ひそかに将来を誓い合っていた。
乙女のことを、王子はダフネと呼んでいた。
ダフネとはな、異国の言葉で、月桂樹と沈丁花の両方を指すのだそうだ。
なんでも、月桂樹の葉に、沈丁花のそれが似ているとかでな。

王子と恋人は話した。
月桂樹と沈丁花は親子のようだと。
月桂樹が父なら、それに似ているとたとえられた沈丁花は子にあたるのだな、と。
そしてまた二人で語らった。
月桂樹と沈丁花、どちらが好きかと。
月桂樹は料理に使え、沈丁花は春の先触れのように咲き、薫る。
月桂樹は勝者の冠になり、花が薬にもなる沈丁花もまた、「栄光」や「不滅」といった意味を持つ。

どちらかが一方を選べば、もう片方が残りを選び。
ならばと意見を翻せば、相手もまた然り。
戯れのようなやりとりを楽しみながら、二人は確かに心を育んだ。

ところが、二人の誓いはかなわなかった。
乙女のことを、王子の父親が見初めたからだ。
王子は父である王に逆らうことができず、乙女と会うこともかなわなくなった。
婚礼が決まってからというもの、王子のそばには王の近衛兵がつき、身動きがとれなかったからだ。

婚礼を翌朝に控えた夜のことだ。
王子の元には月桂樹の花の入った封筒が届いた。
乙女からのものであると、すぐにわかった。
月桂樹はな、葉と、花と、実で、それぞれ別の花言葉があるのだ。
月桂樹の花の花言葉は「裏切り」だ。
王子は己の不甲斐なさのせいで、乙女は心変わりをしたのだと思い、大いに悲しんだ。
乙女は王に嫁ぎ、男の子を身ごもったが、ほどなく王が身罷った。
王位継承第一位にあった王子は、王の座を継いだ。
玉座の間と、そこから続く王の間を譲り受けたとき、書斎の引き出しの奥である封筒を見つけた。
中には枯れた月桂樹と沈丁花の葉が入っていた。
同封の便箋には、褪せた文字でこうあった。


『ダフネの王は、どちらをお選びになりますか』


どうやら乙女は月桂樹の花の前に、この手紙と葉を、王子に宛てて送ったらしい。
それを、どこからか知った王が手に入れ、王子に届かぬよう握りつぶしたというわけだ。



ひどい話ですね、と、道化者は王様に言いました。
王様は少し笑って、そうだな、と道化者に返し、続けました。


だが不思議だとは思わないか。
横恋慕した相手が恋人に宛てたものなのに、なぜ大事にずっと持っていたのか。


その答えはとても、一言では説明できないもののように思われました。
道化師は考えました。
もしもすぐに、手元に月桂樹と沈丁花が届いていたとして、自分ならどちらを選ぶかと。
これもまた、答えようのないものだと道化師は思いました。
選ぶべきなのは月桂樹でも沈丁花でもなく、愛する乙女だからです。

道化者に話しかけてはいるものの、王様は、未だ月桂樹から目を離さないでいます。
道化者はだしぬけに、王様、お茶が飲みたいです、と言いました。
王様は拍子抜けした顔をして、その後、道化者に笑顔を見せました。
それで、この話は終わりました。
道化者は、内心ほっとしました。


その王子様は、王様のことですね、と、確かめなくて済んだので。



後になって道化者は、王様に、城内をうろついていた時の詳細を喋らされました。
変装して、部外者がうろついているようには見えないようにしていた、と答えました。
どれほどのものか見せてみよ、というので、道化者はおしろいを落とし、化粧を変え、衣装を拝借して、王様の近衛兵に変装しました。
道化者は話し方といい立ち振る舞いといい、本物そっくりでした。
最初に現れたときには、王様でさえ騙されたほどでした。
道化者は王様にお願いしました。
せめて、あの噂の真偽だけでも調べさせてほしい、と。
王様に害なすようなことを考えているものが本当にいるのなら、それが誰かを突き止めたい、と。
王様は道化者の熱意に、ついつい負けてしまいました。

道化者は慎重に調べ上げました。
そして、残念なことに、誰かが本当に王様を毒殺しようとしていることを突き止めました。
目的は、王の座。
犯人についても、道化者は目星がついていましたが、証拠がありません。
何かないかと探っている間に、王様が倒れてしまいました。
道化者の捜査が間に合わず、王様に毒が盛られてしまったのです。

幼少のころより毒への耐性をつけるよう、身体を慣らされていた王様は、重篤な状態のまま命を繋いでいました。
王様は高い熱が何度も続き、うなされる日々でした。
道化者はけんめいに看病しましたが、何日経っても良くなりません。
疲れのせいで、道化者も、王様と同じくらいやつれてしまいました。

今夜が峠となるだろうという夜、王様は枕元に道化者を呼び寄せました。
良くなってからにすべきだと止めても、大切な話だと言って聞きません。
今までずっと、話すことができずにいた、などと言いつのられ、道化者は不安になりました。
なんだか、これが最後になってしまいそうで。
少しでも王様に元気になってもらおうと、道化者は張り切っておしろいをはたき、化粧をしました。
でも、寝台に横たわる王様を見て、化粧は無駄になりました。
やつれきった王様の痛ましさに、道化者はぽろぽろと泣いてしまったのです。
目元の化粧がにじむのを、道化者は衣装の袖で拭いました。
ひどく顔面を汚す道化者に、王様は苦笑しながら言いました。
言われてみれば、おまえの素顔をきちんと見たことがなかった。
化粧を落としたところを見せてはくれないか。

城に来てからも、道化者がいつでも化粧をしていることには変わりがありませんでした。
城内を歩くときは誰かに変装し、王様の前ではおしろいで、念入りに素顔を隠していたので。
道化者自身も、自分の素顔を見ると、何か物足りないような気持ちになるのでした。
なんというか、調理されていないままの食材や、畑から取ってきたばかりの、土のついたままの野菜を眺めているような。

ほかならぬ王様の頼みです。
道化師は、化粧を落として王様に素顔をさらしました。
王様は、なんともいえないものを含ませた笑みを作りました。



道化者の素顔は、王様と瓜二つでした。
顔だけでなく、背丈や姿かたちまで。



最初に王様に会った時から、道化者はそれに気が付いていました。
だから道化者は、これから話されることの想像がついていました。
きっと自分は、王様の影武者として呼び寄せられたのだろう、と。

しかし、王様の語った秘密は、それどころではありませんでした。
道化者は、王様の実の双子の弟であったからです。

この国には、双子は国に禍をもたらすとの言い伝えがあったそうです。
そのため、道化者は殺される運命にありました。
それを憐れんだ先代の王妃は、己の子を、大道芸をしながら諸国をさすらっていた若い夫婦に託したのでした。
妃は夫婦のため、隣国に土地を買い家を建て、そこで暮らしていけるようにとりはからいました。
道化者の家に火が放たれたのは、王様の血に連なるものを絶やそうとするものによる悪事でした。
その犯人と、王様に毒を盛った犯人は同じに違いありません。

ということは、王様は、もうずっと前から、誰が己を狙っているのかを知っているのではないか。

はっとした道化者に、王様は力なく頷きました。
そして道化者に言いました。

おまえの命を救ったのは、ほかでもないおまえの芸だ。
あちらには、おまえが生きていることは知られていない。

道化者は悟りました。
どうしてあの夜、自分はこの国に連れてこられたのか。
どうして王様は「自分の許した場所以外には、どこにも行ってはならない」と言ったのか。


宮廷(ここ)にいるのは愚か者や臆病者、欲望に醜く歪んだ獣たちばかりだ。
だがな、友よ。
誰よりも愚かで臆病なのも、醜く歪んでいるのも、ほかでもない、この私なのだ。


無念を浮かべ眉根を寄せる、王様の目尻が光りました。


どうかゆるしてくれ。
おまえを弟とさえ呼べなかった私を。


道化者は王様の手を握りました。
王様はその顔を、安らかに青ざめさせていきました。



翌朝、王様の声に側近が目にしたのは、奇跡的に一命を取りとめ、寝台で上体を起こした王様の姿でした。
その傍には、王様にすがるようにして倒れこんだ、道化者のなきがらがありました。
道化者の顔にはいつものように、おしろいと、口紅と、目元に涙の形のしるしが描かれております。
王様は側近に言いました。


誰かが私に毒を盛った。
私がそれを信じなかったせいで、道化者は死んだ。
私の代わりに毒を飲んだのだ。


そして、道化者を弔うように側近に命じました。
道化者は誰にも見つからぬように故郷に運ばれ、丁重に葬られました。
墓石には道化者の名前ではなく、『いつもあなたの傍に』という一文だけが刻まれました。


程なくして、王様の元を前王の側室が訪ねてきました。
回復のお見舞いに来たそうです。
ですが、その表情は信じられないものを見るかのようでした。
鷹揚に見舞いの礼を言う王様の顔を、側室はじろじろと確かめるように眺めています。


どうした、私の顔を、そなたは忘れてしまったのか。


気を悪くするでもなく尋ねてくる王様。
側室は息を呑みました。
側室が返答に窮している間に、王様はあるものを持ち出しました。
そこには一枚の植物の葉。


今でもわかるか。
これが月桂樹と沈丁花のどちらであるか。


王様は尋ねながら、側室に葉を渡しました。
月桂樹でも沈丁花でもない、しかしそれらに似た、「ゆずり葉」の若葉を。
側室は顔を伏せ、美しい黒髪に、己の表情を隠しました。
指先で葉の面を撫でる側室を見つめながら、王様は彼女の返答を待ちました。





ある古いお城の庭。
黒髪の乙女が恋人と寄り添い、語らっておりました。
二人の重なった手の中には、二枚のよく似た葉と、手鞠型に固まった、強く芳しい小さな花。


ダフネよ、今日は随分と機嫌がよいな。

ええ、素敵なお話を読んだのです。
お聞きになってくださいませ。

なんだい、教えておくれ。


ダフネと呼ばれた乙女は、遠い異国の神話を語りました。
恋の矢を受けた神様と、その神様の求愛を拒み、木に姿を変えた神の娘のお話。
それゆえ語源をさかのぼると、己の「ダフネ」という愛称は、二つの植物を意味することになるということ。
そしてそれは、どちらも己の愛する植物であるということ。


ね? とても素敵だとは思われませんか。
わたしが一番好きな花の名前に、そんな由来があるなんて。

初めて聞く話だが、なかなか面白い。
そなたは物知りだな。

まぁ、「王様」ったら。

こら、やめないかダフネ。
私はまだ「王」ではない。

そう仰らないで。
ご存知でしょう。
わたしにとって、「王」と呼ぶにふさわしいのは誰か。


王と呼ばれた若い男は、こそばゆさと罪悪感を交わらせ、乙女に笑みを返します。
乙女は男に甘えるように、己の身体をもたれさせました。


決して、お忘れにならないでくださいませ。
ダフネの王様は、あなたさまだけです。


二人の影が一つになるその足元で、こぼれ落ちた沈丁花が薫っていました。


(SS)ろくちゃんに会いに

「やあやあ、これはまたずいぶんと晴れたなぁ」


空を仰ぎながら、むうさんは着ていた茶色のコートのボタンを外しました。

この人は、「むうさん」といいます。
むうさんはお出かけの途中です。
今日は久しぶりに、大すきなろくちゃんに会いに行くのです。
ろくちゃんは、森を抜けた先、開けた丘の上の、一本だけ、大きな木のある場所にいます。
おみやげは、全部で五つ。
ふさつきのほしぶどうと、バニラの香りのたばこと、コーヒーと、フランスパンと、大きなバターのかたまり。
全部、ろくちゃんがあこがれていたものなのです。


むうさんとろくちゃんは、学校に通う前から友達でした。
二人のお家の近くに、大きな木のある―これから行こうとしている―丘があって、いつもそこで遊んでいたのでした。
ろくちゃんの口癖は、「おとなになったら」でした。
ろくちゃんにはやりたいことがたくさんあったのですが、おとうさんとおかあさんに、いつも「おとなになったらね」と止められるのです。


「おとなになったら、ふさにくっついたまんまのほしぶどう、自分でちぎって食べるんだ」

「おとなになったら、こないだ見たおじさんみたいに、もくもくっ、て、たばこをすうんだ」

「おとなになったら、自分でコーヒー、ふーふー、ってして飲むんだ」

「おとなになったら、大きいまんまのフランスパンに、バターをいっぱいぬってかじるんだ」


二人でお気に入りのミニカーを走らせているとき、きまってろくちゃんは言うのでした。

ろくちゃんが小学校の二年生になるとき、むうさんは引っ越しで、遠くに行かなくてはならなくなりました。
さいごのお別れの日、ろくちゃんとむうさんは、お互いの一番すきなミニカーをこうかんしました。


ずっと忘れないからね。
おとなになったら、ぜったいにまた会おうね。


ろくちゃんとむうさんは、笑って約束をしたのでした。
お顔は二人とも、なみだとはなみずでべしょべしょでした。



「それにしても、あったかいなぁ」


朝早くにお家を出たむうさんはうれしそうです。
のんびりぽかぽか、道を歩きます。
しばらくすると、道の先に何かが見えてきました。


「なんだろう、はねてる」


近づいてみると、それは一匹のキツネでした。
やせていて、薄汚れていて、ちょっとくさそう。
そんなキツネは、ぴょんぴょん、と、何かにむかって何度も跳び上がっています。
一生けんめい前足を伸ばす先には、ぴかぴかに実ったきれいなぶどう。


「こんにちは」

「……」

むうさんはキツネに話しかけましたが、キツネは全然むうさんに返事をしません。
まるでむうさんに気づいていないかのように、ぶどうに向かってぴょんぴょんしています。


「このぶどうがほしいの? おなかがすいているのかい?」

「……」


やっぱり、キツネからの返事はありません。
腹をたてたむうさんは、腕を伸ばしてぶどうを取り、一粒口にほうりこみました。


「うわぁ、すっぱい!」

本当に、ものすごくすっぱいぶどうだったので、むうさんの顔は思わずくちゃくちゃになりました。

キツネはその顔にびっくりした後、ようやくむうさんに言いました。


「ふん、知ってたやい! そんなこと!」


同時に、キツネのお腹も言いました。


―ぐうぅ~!


お腹の音にじゃまをされたキツネは、気を取り直してもう一言。


「よけいなことするなよ! にんげんのくせに!」

―ぐぅ~! ぐるるぅ~!


今度はさっきよりも、もっと大きな音でお腹が鳴りました。
恥ずかしくなったキツネは、ぴょん、と、茂みの中にかくれました。


「お腹がすいているなら、こっちのぶどうをあげよう。
しわしわしてるけど、甘くておいしいよ」


むうさんは、ろくちゃんへのおみやげのほしぶどうを、少しだけちぎって地面に置きました。
キツネからの返事はありません。
もう、茂みの奥を進んで、いなくなってしまったのかも。



「ごめんよキツネさん。じゃあね」


むうさんはそう言って、先に進むことにしました。



「ふう、ちょっと、暑くなってきたなぁ」


どのくらい歩いたでしょう。
あごの下をぐい、とぬぐい、むうさんは言いました。
茶色のコートを脱いで、腕にひっかけます。
ポケットからハンカチを出してひたいの汗も拭きます。
すると、そばの茂みから、三角の耳がちょこん。
みおぼえのあるその形、さっきのキツネ。


「よう」


わざとらしく首をかしげて、キツネはむうさんに話しかけます。
ふん、さっきは返事もしなかったくせに。
むうさんは気づかぬふりをして、ハンカチで首をごしごし。


「なあ、おまえ、どこに行くんだい」

「……」

「さっきのあれさ、すっごいうまいのな」

「……」

「ちょっとかたいけどさ、生のぶどうよりうんと甘いの。
おいら、あんなのはじめて食べたよ」

「……」

「なんだよう、返事くらいしろよう」


キツネはきっと、もっとほしぶどうをもらいに来たのだろう。
だめだめ、あれはろくちゃんへのおみやげ。
きっとキツネにあげたら、ぜーんぶ食べられてしまうにきまってる。


「……へっ、やぁっぱり、にんげんはいやなやつなんだよな。
あーあ、せっかくお礼に、道あんないしてやろうと思ったのに」


かってなことばかり言うキツネに、むうさんはようやく言い返します。


「あんないなんていらないや。ぼくは昔、この近くに住んでいたんだから」

「へぇ、そうかい。道に迷って、困っちまったって知らないぜ」


いじわるな言葉をぶつけて、キツネはぴょん、とまたいなくなってしまいました。
あーあ、へんなのに会っちゃったなあ。
むうさんは気を取り直して、道を先に進みます。
が、しばらくすると、くさむらのなかにまた三角の耳。
むうさんに話しかけて、言い返して、またけんか別れして。

そう。
キツネはこっそり、むうさんの後を、ずぅっと追いかけていたのでした。
そしてむうさんも、なぜだか、それを追い払おうとしませんでした。




「……あれ、どっちだったかなぁ」



むうさんの歩みが止まってしまったのは、あるわかれ道でのこと。
ふたまたになっている先の、どちらが正しいか、わからなくなってしまったのです。


「おいキツネ」

「なんだ、にんげん」


三角の耳をぴこぴこさせて、キツネが返事をします。


「この先にある、大きな木が一本だけ立っている丘を知らないか。
ぼくはそこに行きたいんだ」

「ああ、そこなら知ってるぜ。
おしえてやってもいいけど……」

「なんだよ、早く言えよ」


キツネは黙ったまま、むうさんの荷物を横目で見ています。


「仕方ないなぁ」


ろくちゃんごめん。


心の中であやまりながら、むうさんは少しだけ、ほしぶどうをちぎってキツネにあげました。
正しいのは左の道とのこと。
むうさんとキツネは、いっしょに左に進みました。
ところがいくら進んでも、あの思い出の丘が見えてきません。


「あれ、おかしいなぁ。この道、こんなに遠かったかなぁ」


不安な気持ちを我慢しながら、むうさんはどんどん歩きます。
でも、やっぱりあの場所に着かないのです。


「キツネ、おいキツネ、いるんだろ」

「なんだよう」

「おまえ、本当にこっちで合ってるんだろうな」

「合ってるさ、もう少しだよ」


同じようなやりとりを何度かして、また進んで。
でも、いくら歩いても歩いても、あの場所は見えません。
そうするうちに、すっかり日が暮れてしまいました。
今夜は野宿をするしかありません。


ろくちゃんごめん。


むうさんは、おみやげのフランスパンを少しだけちぎり、バターもひとかけだけとって、食べました。
コーヒーも、ちょっと飲みました。
たばこも、少し吸いました。
昼のあたたかさがうそのように、夜はとても冷えました。
がたがたふるえて丸まっていると、キツネがそばにやってきて、むうさんのふところに入り込みました。
キツネも寒いのでしょう、むうさんにぴったりくっついて、ふるふるとふるえています。

むうさんはキツネにとても怒っていました。
きっと、ぶどう欲しさに『うそ』を言ったのだと。
ですが寒くて寒くて、コートを着込んでえりを立てたくらいでは、どうしようもないのです。
がまんできず、キツネを迎え入れました。
キツネの毛はほこりっぽくて、土の匂いがしました。
くさくはありませんでした。
ひとりよりはいくぶんあたたかでしたが、寒さでどうにも眠れません。
仕方なく、むうさんはキツネと話をして夜を明かしました。
それに、少し心配していたのです。
もしかして、眠っているすきに、キツネにろくちゃんへのおみやげを、全部とられてしまうのではないかと。

むうさんはキツネに話しました。
ここにはろくちゃんに会いに来たこと。
ろくちゃんとの約束のこと。

キツネはむうさんの話を聞いた後、自分のことを話しはじめました。
猫と文鳥の話でした。


キツネの知っている猫は、メスの三毛猫でした。
緑の目がきれいなのだそうです。
キツネの知っている文鳥は、真っ白いメスの文鳥でした。
赤いくちばしがきれいなのだそうです。
三毛猫と文鳥は、どちらもキツネがすきだとか。
文鳥はキツネにとまってかわいらしくさえずり、三毛猫は身体をすり寄せてのどを鳴らす。

キツネは猫のことも文鳥のことも、同じくらいすきでした。
だから、どちらにも言いました。
君のことはすきだ。
でもあの子も同じくらいすきなんだ。
だから、どちらかだけと仲良くはしない。


三毛猫はやきもちを焼きました。
白文鳥のように美しくさえずり、キツネにほめてもらいたかったから。
高く高く空を飛べることが、とてもすてきだと思ったから。
白文鳥もやきもちを焼きました。
三毛猫のように、キツネと鼻の先を合わせて、キスをしてみたかったから。
光に合わせてひとみの形が変わる、あの緑がとてもすてきだと思ったから。

きっかけは、どちらだったのか。
あるとき、猫と文鳥はとてもひどいけんかをしてしまいました。
猫は文鳥の羽をひっかき、文鳥は猫のひとみをつっつき、お互いに、きずだらけになってしまいました。
止めに入ったキツネは、猫と文鳥に言われたそうです。
こんなことになったのはあなたのせいだ。
どうしてわたしをえらんでくれないの。
わたしはこんなに、あなたのことがすきなのに。


「なあ、ムー」

「なんだよ」


とつぜんそんな呼びかたをされて、むっとしながらむうさんはこたえました。
なんだよ、なれなれしいなぁ。
さっきまで、「おい、にんげん」だったくせに。


「おいら、どっちとなかよくしたらよかったんだ?」

「そんなこと、ぼくが知るわけないだろう。
お前のすきにしたらいいじゃないか」

「すきにしたぜ。どっちもおんなじくらいかわいかった。
だから、どっちとも、おんなじくらい仲良くした。
それがいけなかったのか?」

「ばかだなぁ。猫も文鳥も、おまえと『いちばん』仲良くしたかったんだよ。
だからけんかになったのさ」

「でも、『いちばん』が決められないときだって、あるだろうよ」

「まあな」

「にんげんは、そういうときにはどうするんだ?」

「そうだな……」


ねころんだまま腕を組んで、むうさんは少し考えました。
考えましたが、これはなかなか、むずかしいことです。


「きっと、おまえと同じことをしたんじゃないのか」

「そうか?」

「たぶんな。……それで、猫と文鳥はその後どうなったんだ?」

「……知らない」

「なんでさ」

「おいら、逃げてきたんだ。両方にせめられて、ひどいひどいって、たくさん言われて。
だから言い返してやったんだ。なんだいなんだい、ふたりとも、かってにけんかしたくせに、って。
おいらを困らせるようなのなんて、どっちも嫌いだ、って」

「怒ってなかったか、三毛猫と文鳥」

「知らない。泣いてた」

「いいのかおまえ、もどらなくて」

「おいらのかってさ。にんげんのくせに、なまいきだぞ」


むうさんからすれば、なまいきなのはキツネのほうです。
何か言い返してやろうかと思いましたが、むうさんはやめました。


「ぼくは明日も歩くぞ。ろくちゃんがまってるからな。」

「おいらも行く」

「ついてきてどうするんだ」

「うるさいやい、どうせおまえ、ひとりじゃ帰れないだろう」

「帰るもなにも、おまえの言うとおりに進んでこんなことになったんじゃないか。
ははぁ、さてはおまえ、ぼくのことをばかしたな」

「なんだと、なんてにんげんだ。
ばかしただなんて、ひどいやつだな」

「……」

「とにかく、おいらはおまえについてくぞ。
この森をぬけるまで、ぜったいについていくんだからな」


すきにしろ、と、むうさんはキツネに言おうとして、やめました。
どうしてやめたのか、むうさんにもわかりませんでした。


「おいら、さびしくなんかないんだ。
猫がいなくても、文鳥が、いなくても。
わかってるんだ、みんながおいらのこと、わるいやつだって言うんだ。
おいら、平気さ。慣れてるんだ、『わるもの』には。……慣れてるんだ」

「……そうか」

「そうだ」


きつねがもういちど、ちいさく「そうだ」とつぶやいたところで、この話はおしまいになりました。



明け方の、寒さがひときわきびしくなるのが過ぎたころ、むうさんとキツネは起きて、また歩きはじめました。
歩けど歩けど、見えるのは似たようなところばかり。
まるで、おんなじところをぐるぐる回っているみたい。
二日目にもなれば、足も痛いしひどくお腹もすきます。


ろくちゃんごめん。


心の中で呟きながら、少しずつ、フランスパンとぶどうを食べ、コーヒーを飲みました。
ぶどうとバターは、たまにキツネにもあげました。


本当は、ろくちゃんのなんだぞ。


キツネがおいしそうにほしぶどうをかむのをを見ながら、むうさんは心の中でつぶやきました。



真昼を少しすぎて、ほしぶどうの残りが、あとほんのひとつかみになる頃。
むうさんの目の中に、懐かしい景色がとびこんできました。
少し小高い、開けた野原。
その真ん中にある、大きな木。


「わぁ。キツネ見ろよ、やっと着いた」


つかれた顔を笑みでいっぱいにして、むうさんはキツネに言います。
かけ出したくてたまらないのですが、たくさん歩いた後の上り坂はこたえます。
くたくたで、足が重たくて走れません。
もどかしくもうれしい気持ちで歩みをすすめるむうさんですが、キツネはかなしそうです。
うれしいむうさんは、それに気づきません。


「ムー」

「うわぁ、なつかしい! ああ、早く行きたいなあ」

「なあ、ムー」

「キツネ、おまえなにしてるんだよ、早くこいよ」

「ムーってば」

「なんだよさっきから、うるさいなぁ」

「本当に行くのか」

「当たり前だろ、ろくちゃんが待ってるんだ」

「だめだ、行くなよ、ムー。
もどろうよ、おいらといっしょに」

「なに言ってんだ」

「行っちゃだめだよ、ムー。
やめよう、おいらと帰ろう、ねえ、ムー。」

「なんだよおまえ。行きたくないならそこにいろよ。
ぼくは行くぞ、約束したんだ、また会おうねって。
ろくちゃんと約束したんだ。ぜったいに、おとなになったら、って」

「……ムー……」

「あ、花が咲いてる。これ少しつんでいこう。
ろくちゃんはピンクと黄色と、白いお花がすきなんだ」


止めるキツネをふりきり、むうさんはがんばります。
途中に咲く花をつみながら、一歩ずつ、坂道を上ります。
キツネは立ち止まり、むうさんのせなかをしばらく見つめていました。
むうさんは、一度もキツネの方を振り向きません。
キツネはゆっくりと、来た道をもどり、森の中に消えてゆきました。


丘のてっぺん、大きな木の真下までやってきたとき、むうさんはぎゅっと目をとじました。
ふかく息をはきますが、むねがどきどきするのがとまりません。




「……やあ、ろくちゃん」

―あ、むーちゃん! むーちゃんだあ!

「ひさしぶり。ごめんよ、おそくなって」

―ぼく、まってたよ。むーちゃんのこと、ずっと

「待たせてごめんね。おみやげ、たくさん持ってきたよ。
でも、とちゅうで道にまよってね。みんな食べかけになっちゃったんだ」

―あはは、むーちゃんたら、しょうがないなぁ。

「だからこれ、さっきつんできたの。
ろくちゃんににあう、きれいでいいにおいのお花だよ。」




むうさんはそっと、つんだ花の束を、木の根元の、地面に置きました。
そこにあるのは、少しつたのからんだ白い石。
ちょうど、小学校で使う、机くらいの大きさの。




「ろくちゃん……」


待たせてごめんね。
約束、守れなくてごめんね。
ろくちゃん、ごめんね。


いつのまにか、むうさんの顔はなみだでぬれていました。


引っ越してすぐに、新しい学校で、むうさんには友だちがたくさんできました。
友だちはみんな、むうさんに、ろくちゃんがむうさんにつけたのとはちがうあだ名をつけました。
最初はへんなかんじでしたが、むうさんはすぐにそれが気に入りました。
むうさんは毎日楽しく過ごして、どんどん大きくなって、おとなになりました。
女の子のお友だちができて、とっても仲よしになって、大すきになって、いちばん、大すきになって。
そのころにはもう、むうさんはろくちゃんのことなんて、すっかり忘れてしまっていました。

ろくちゃんがおとなになれなかったのをむうさんが知ったのは、だから、ずっとずっと、後になってからのこと。

大すきな女の子とけっこんして、むうさんにはこどもができました。
とってもうれしいことでした。
でも、そのこどもは、おとなになれませんでした。
ろくちゃんとおんなじ年のまま、むうさんのところからいなくなってしまったのです。

むうさんとおくさんは、とってもかなしくなりました。
かなしくてかなしくて、かなしいのでいっぱいで。
大すきでいっしょになった人を見るたび、いなくなってしまったこどもを思い出して、またかなしくて。
それでも、むうさんはやっぱり、おくさんのことがとてもすきだったのです。


それなのに。


むうさんの知らないうちに、むうさんのおくさんは、むうさんではない人と仲良くなっていました。
むうさんは怒りました。
怒って、とてもかなしくなりました。
おくさんをせめました。
おくさんは泣きました。

あなたと一緒にいると、いなくなったこどもを思い出す。
それがとてもつらい。
あの人といると、あの子のことを忘れていられる。
だからといって、あなたを嫌いになんてなれない。
悪いのはわかっている。
でも、どうしたらいいのか、わからない。


どうしたらいいのかわからなくなってしまったのは、むうさんも同じでした。
むうさんはとほうにくれて、からっぽになってしまいました。
おしごとをがんばる気持ちも、おいしいものをたべたい気持ちも、なんにもなくなってしまいました。


もう、消えてなくなってしまおう。
からっぽのままここにいても、どうしようもない。


むうさんはおくさんに気づかれないよう、少しずつ、したくを始めました。
「いなくなる」じゅんびです。
いらない持ち物を捨てたり、人にあげたり、売ってお金にしたり。
そのとき、ひきだしの奥から見つけたのが、ろくちゃんのミニカーでした。



ねえ、ろくちゃん。
ぼく、おとなになったよ。
ろくちゃんがしたかったこと、みんなできるようになったよ。
でもね。



ほっぺたをぬらしたまんま、むうさんはろくちゃんのとなりにこしかけ、木に身体をもたれました。
今日もとっても、とってもいい天気でした。
不思議なほどにあたたかい風がそよぎ、むうさんは、そっと目を閉じました。
本当は、むうさんはもう、ろくちゃんの顔も声も、思い出せないのでした。
なのにろくちゃんに会いたくて、会えなくて、いつまでも涙がとまらないのです。

むうさんはそのまま、立ち上がることができなくなってしまいました。
たくさん泣いて、たいようが沈んで。
足もとからしんしんと、寒さがむうさんをつつみこんでも。
むうさんはもう、なんにもかんじませんでした。




思い出の丘を夜がのぼり、青白い月明かりが、大きな木と、その根元にいるむうさんと、ろくちゃんのことを照らす頃。
むうさんに置いて行かれたキツネが、丘にむかって坂道を歩き始めました。


慣れてるんだ、『わるもの』には。


丘のてっぺん、木にもたれて目をとじたむうさんは、眠っているように見えました。
キツネはむうさんのコートの中からふところに入りこみ、むうさんに言いました。


「おいらはキツネだ。キツネはな、うそつきでいじわるで、あまのじゃくなんだ。
そんで、にんげんのことなんか大嫌いなんだ。」


むうさんは、うごきません。
だまったまま、目をとじたまま。


「起きろよ、ムー。あのほしぶどう、またおいらにくれよ」


キツネはぎゅっと、むうさんに顔をうずめました。

(SS)once more -a spoon of your wish-

あるところにちいさな男の子がいました。
くるんと髪の毛のカールした、女の子のようにかわいらしい男の子でした。
いくつ?ときかれると、いつも決まって右手の親指だけを折り曲げてみせます。
でもほんとうは、男の子はまだ三歳です。

この男の子には大変大きな問題がありました。
いつまで経っても、大人しくごはんを食べてくれないのです。
男の子は年の割に、うんともの覚えのよい子でした。
スプーンとフォークを使って、上手にごはんを食べることもすぐにできるようになりました。
なのに男の子は食事の時間になると、決まってかんしゃくを起こしたように暴れるのです。
スープ皿をひっくり返したり、ソースのこびりついたスプーンを振り回したり、フォークで机をたたいたり。
何度も何度も同じことを繰り返す男の子の、不機嫌の原因が大人はわかりませんでした。

何とかしようと、何人もの大人が男の子をなだめました。
ある女の人も、男の子に言いました。

ごはんは食べるもの。
命をもらって、ありがとう、と思いながら食べなくちゃいけない。
こんな風にいたずらするのはもったいないし、いけないことだ。

丁寧に言って聞かせる女の人の顔に、男の子はパスタのトマトソースをぶつけました。
やめなさいと何度言っても、男の子はききません。
女の人が怒って叱るたび、男の子はにやにやと笑いながらトマトソースをスプーンに掬い、女の人に投げつけます。
パスタのお皿が空っぽになるころ、とうとう女の人が言いました。

こんなばかな子、もう知らない。
いつまでもそうやって、ひとりで暴れていればいい。

かんかんになった女の人はそう吐き捨てて、男の子のところからいなくなってしまいました。


しつけが足りないのだと、厳しく叱る女の人もいました。
男の子がごはんを食べる姿を、その女の人はずっとにらんでいました。
いつも通り男の子がスープ皿をひっくり返し、机全部がスープまみれになったとき、女の人は男の子をぶちました。
男の子はびっくりしました。
かぁっと広がる痛みに、ぽろりと涙をこぼしました。
それでも女の人は、男の子をにらんでいました。
男の子は涙をぐいっと拭いて、怒った顔でお皿をひっくり返しました。
女の人はもう一度、男の子をぶちました。
男の子が暴れるたびに、女の人は男の子をぶちました。
いたずらをする手を、涙の跡の残るまあるい頬を。
ぶたれる痛みに、止まった涙がまたこぼれます。
それでも男の子はいたずらをやめません。
やめないから、女の人にもぶたれます。

じきに、男の子はぐったりしてしまいました。
顔や腕は腫れて真っ赤になっていて、いくつか青痣もありました。
気付いた周りの大人が、虐待じゃないか、と女の人を男の子から引き離しました。

悪い子をしつけるには力しかない。
みんな馬鹿だこと。
あの子をしつけられるのは、わたししかいないのに。

どうなったって知らない、と、捨て台詞を残して女の人はいなくなりました。


中にはものめずらしさから、男の子のいたずらを見に来る女の人もいました。
男の子のたいそうかわいく愛らしい容姿に、その女の人はとても喜びました。

なんてかわいい子なの。
まるで天使みたいじゃない。

満面の笑みを浮かべて誉めそやしながらも、女の人は男の子を、まるで見世物のように扱うのでした。
女の人に向かって、男の子はフォークを投げつけました。
女の人はそれを取り上げ、やっぱりかわいいと男の子に笑いました。
そうして男の子のそばにまとわりつきました。
髪の毛に触ったり、頬をつっついたり、ひっくり返ったスープ皿を元に戻したり。
そのたびに男の子のかんしゃくはひどくなり、大声でわめくようにもなりました。
なのに女の人はそれさえも面白がって、何度も男の子をからかいました。
時にはスプーンを取り上げてみたり、はたまた手ずからごはんを食べさせようとしてみたり。

あらかたの反応を楽しんだ頃、女の人は男の子を置いて、どこかに行ってしまいました。
探しにやって来た人に聞かれて、女の人は笑いました。
どうしていなくなったのか。
どうしてあの子を置き去りにしたのか。


だって、飽きちゃったんですもの。



そういうわけで、男の子のかんしゃくを直せた人は、今まで誰もいません。
ひとりぼっちの男の子は、毎日元気に暴れていました。
暴れて暴れて、自分も机の上もお部屋の壁も、みんなみんなぐちゃぐちゃにしながら。



うわぁ、きったない。



その女の人は、部屋に入るなり言いました。
確かに、その日の部屋はいつも以上の惨状でした。
ひっくり返ったカレーライスに、壁にこびりついたタマゴサラダ。
コンソメスープは机の上に広がって、まるで透けたテーブルクロスでも敷いているみたい。


なんでこんなことするの?
カレー、きらいなの?


男の子は驚きました。
何かをたずねられたことがなかったのです。
困った男の子は、ただそっぽを向きました。


わたし好きだけどな、カレーライス。


もったいない、という言葉が、男の子の胸にちくりと刺さったのでした。


それからしばらくの間、女の人は男の子のところに毎日やって来ました。
男の子はいつものように暴れていて、女の人はそれを、心底不思議そうに眺めているのでした。
咎めるでもなくしつけるでもなく、ましてや面白がることもなく。


女の人が来た回数を、数えた左の手が「グー」になったその日、男の子はとってもおいしいものを食べていました。
小さく刻んだベーコンと、アスパラととうもろこしの入ったスクランブルエッグ。
誰がどうやったのかは知りません。
でも、ほっぺたが落っこちそうなほどおいしかったのです。

男の子はいっしょうけんめい、スクランブルエッグを食べました。
こぼさないように全部食べるのは、けっこうむずかしいものです。
どうしても最後に、ベーコンととうもろこしが残ってしまいます。
久しぶりにちゃんとスプーンを使うからでしょうか。

うまくいかないのに腹が立ち、男の子が器とスプーンを投げ捨てた頃、女の人が入ってきました。
女の人の目の前に、食べられなかったベーコンととうもころしが散らばりました。
足もとに転がった器を持って、女の人は男の子のところにやってきました。


……おいしくなかった?


格好わるいところを見られた男の子は、黙ってそっぽを向きました。
本当は、とってもおいしくて、おかわりしたいくらいだったのに。


これ、わたしがつくったのよ。


思わず男の子は振り向きます。
女の人は、とてもかなしそうな顔です。
ぐっと、男の子の胸が痛くなりました。


ふぅ、と。
諦めたような笑い方をして、女の人はいなくなってしまいました。



その日から、男の子は暴れるのをやめました。
ひとりぼっちでも、上手に大人しく、ごはんをきちんと食べるようになりました。


男の子は思っていました。
女の人にあやまりたい。
とってもおいしかったのだということを伝えたい。
でもその日っきり、女の人は来てくれません。
女の人が来てくれた数と、来なくなってから数えた数が同じになりました。
いい子にしていたのは、いつ女の人が来てもいいように。
なのに。


男の子はまた暴れたくなりました。
ごはんを食べるたびに、あの日の女の人の、かなしそうな顔を思い出してしまいます。
また胸がずきずきと痛くなるのです。
だのに、ほっぽりだそうとスプーンを振りかざせば。


にぎりしめた手に、ぽたりと雫が落ちました。


ひとつ。
またひとつ。


とうとう男の子は、すすり上げながらしくしくと泣き出してしまいました。
かんしゃくともやんちゃな声とも違う小さなそれに、どうして気がついたのでしょう。
驚いたように、大人たちがどんどん集まってきました。
その中にはあの女の人たちもいました。
我慢強く男の子を諭そうとして、匙を投げたひと。
ぶって男の子をしつけようとしたひと。
散々かまって甘やかして、気がすんだからと去ったひと。

誰もが心配そうな顔をして、男の子の傍に寄ってきます。
でも、誰も男の子を泣き止ませることができません。
どうしたのと尋ねても、男の子はただ泣くばかり。


あの女の人は、最後の最後にやってきました。
男の子の涙の理由がわからず、みんなが困り果ててしまった頃。
髪を束ねて、エプロン姿で。
ふんわり匂ってくる、何かの食べ物のいいにおい。

目が合った瞬間、男の子が一層激しく泣きました。
わあっ、と声を上げる男の子に、女の人は言いました。



大丈夫、怒ってないよ。



男の子が伸ばしてきた両手を女の人はぎゅっと握ります。
頭を撫でられて、はじめて男の子が言いました。



ごめんなさい。



それは大人たちが初めて聞く、男の子の言葉でした。



わかったでしょう。
さびしかっただけなんですよ。



女の人に抱きしめられながら、男の子は知りました。
どうして暴れたかったのか。
どうしてみんなが困るところが見たかったのか。



それから、男の子がひとりになることはなくなりました。
男の子がごはんを食べる時に暴れることも、なくなりました。
いろんな大人が、男の子と一緒にごはんを食べて、お話をしてくれるのです。

大人たちは男の子に教えました。
大人にも好き嫌いがあること。
お腹いっぱいになって、残してしまうこともあるということ。
でも、おかわりしたくなるくらい美味しいものだって、世の中にはいっぱいいっぱいあるのだということ。
それから。


好きなひとと食べるごはんは、ごちそうをもっと美味しくしてくれるのだということ。



こんにちは。



二人分の食事を運んできた女の人に、男の子は笑います。
右手にフォーク、左手にスプーン。
さあ、今日のごはんはなーんだ?




(SS)朝

薄明かり。
灰の混ざった青。
仰ぎ見る天井。
浅黒い首筋越し。

きっと、お天気。

半ばのしかかった姿勢で眠っている人は、前髪に寝癖をくっつけ、小さくいびきをかいている。
なんとなくそれを撫でると、枕にでもするように顔を擦りつけられた。
おはようさん、おにいさん。
今日は暖かい一日になりそうよ。

重みを受け入れながら、手持ち無沙汰に朝が来るのを眺め待つ。
次の季節は光と一緒に、部屋の中にも入り込む。
鳥が鳴いて、青の中から灰が薄れる。
濃く澄みわたり、高く広い空がやってきて告げる。
「さあ、もう起きなさい」と。


新しい日を始めて、新しい何かを見つけに行きなさい。
そして受け取り、取り込み、新しいあなたになっておいで。


微睡む彼と、彼の下敷きになっているわたしたちはまだひとつだ。
抜け駆けして、暗がりに二人で隠れて、ドキドキしながら秘密を分け合った「まつりのあと」。
そのわたしと彼に朝は言う。
身体を起こして出てきてご覧、と。
暖かい光が触れ合っていることを不快にさせていく。
朝は躊躇うわたしをそうして誘う。

もう寒くないだろう。
そこから這い出て、見に来てご覧。
ぬくもりよりも君が欲しいと思っているものがあるはずだ。


名残惜しいわたしはそれでも、彼の背中を撫でるのをやめられない。
本当はもう、気がついているからだ。
「名残惜しい」とはどういうことか。
自分が何に先立ち、何を惜しんで、手放せないでいるのか。




ねえ。
楽しかったねぇ。
たくさん笑ったねぇ。

あのさ。
いつもなかなか、言えないでいたんだけどさ。

わたし、いつだってあなたに救われてたよ。
慰めてもらってたよ。

あなたにはもしかして、そんなつもりなかったかもしれないけどさ。


わたしはね、あなたとそうして過ごせることが本当に、本当に嬉しかったんだ。
だからね。
あのね……。




朝はわたしと彼に、別の日を用意した。
それを恨みに思って、逆らって、誰にも見えないところに逃げようとした。
ただついてきてくれたのか、それとも賛同してくれたのかは知らない。
でも彼は「ここ」に、わたしのそばにいてくれた。
だから信じられるようになった。
まだ見えていないものたちのなかに、きっと、今手の中にあるものよりも、もっともっと素晴らしいものがあるってこと。


わたしたちは別々の日を過ごし、別の新しさの洗礼を受ける。
別の何かを与えられ、別の何かに傷つき、乗り越え、立ち上がり、今とは違う自分になる。
もう、恐れて逃げるのは終わりにしなければならない。
なぜならわたしはおくりたいから。
変わることを。
進むことを。
うしろではなく前を向くことを。
やってくる「朝」が孕む無限を。
不確かな「可能性」の中に隠された、目に見えない宝物を。

わたしの冷たさの半分を引き受け、あたためてくれた大切なひとに。



「     」



彼の身体はいつも、私よりも少しだけ熱かった。
頚動脈に落としたのが最後のキスになった。
肌の下から薄く浮きあがったそこから、太陽の匂いと涙の味がした。

(SS)はつこひ

初めてその感情を知ったとき、それは私のものではありませんでした。
私はその心を向けられている対象で、得体のしれない熱と底なしの暗さを、少しばかりさめた心地で眺めていたように思います。
冷たい人でした。
穏やかな人でした。
わかりにくい優しさの受け止めかたがわからず、戸惑わされることの多い人でした。


私は、彼のことが苦手でした。


あからさまに言い寄られた経験がないわけでも、人並み外れて対人関係に苦心する質でもありません。
ありきたりな程度の社交性はあるはずで、空気が読めないと称されることもなく。
そもそもの関係においても、彼もまた、そうして付き合う相手の一人のはずでした。
実際、私たちの距離感はとても適切だったのです。
私が彼の中に、その心を見るまでは。

思い当たるそれと言えば、浮わついた不安定さやら、軟派な軽薄さと裏表をなしているものばかり。
最悪、他にとりかえることだってできなくはない。
複数のブランドショップを渡り歩いて、似たような服を選ぶように。

そんな感覚で見つめられていたなら、こちらも素直に浮かれてやに下がれたのかもしれません。
なのに彼のそれは、私にそんな高揚を許してはくれませんでした。
重かったわけでも、鬱陶しかったわけでもありません。
嫌悪に類する思いではないのです。
そうなる前から、私は彼をとても信頼していたし、好ましい人物だと思っていたから。


何度も聞きそうになりました。
どうして私を見るとき、そんなに瞳がひかるのか。
なのに眦が柔かくなるのか。
ときにはとても苦しそうになるのか。
たまに、なにかを隠すように目を逸らすのか。
でも、そのどれも言葉になりませんでした。
彼は決して、私を己にふみこませてはくれなかったからです。


あんな見つめかたをするくせに。
あんな心を抱いているくせに。


彼はまた理解もしていたのです。
私の心が、己を向いてはいないことを。
どれほど思いが膨らもうと、それと私は関係があるようで、全くないのだと。

覚悟が見てとれました。
報われないこと。
やぶれること。
ひどくひどく、傷つくこと。

冷たいのは、率直だから。
穏やかなのは、内側で燃え続けるものを幾重にもくるんで隠して、閉じ込めているから。


わかりにくいのは、本当に、私を。
まぶしいくらいに、真っ直ぐに。



彼のように人を想ったことのない私には、人がなぜ人を好きになるのかはわかりません。
好かれたくて好きになったわけじゃないと、長い片恋をしていた人に言われたことがあります。
でも、好きになったなら好かれたいと望んでしまうものではないのですか。
心が強く深くなるほど、同じものが戻ってこないことに傷つくものではないのですか。
それでも、そんな気持ちを抱え続けることができるのですか。

疲れませんか。
辛くはありませんか。
私のどこを、あなたはそんなに慈しんでくれるのですか。
なのにどうして、私を愛したままあなたは私から離れようとするのですか。


あの目と自分のそれを合わせるたびに、聞きたいことも言いたいことも増えました。
でもなに一つ、言葉にすることができませんでした。
間違いなく今目の前にあるのに、触れようとすれば、確かめようとすれば、途端に霧散してしまいそうで。
そのうち私の中にはいつも、あの人の存在が居座るようになってしまって。




大切なものは、いつだって見えないからね。



眦を甘く緩ませてあの人は私に嘯き、何故かしら、私の胸は締め付けられたように疼くのでした。

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