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不埒な夢。

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(SS)ダフネの王、あるいは道化者の死


昔々、ある国にとても人気のある大道芸一座がおりました。
座長の夫婦には息子と娘が一人ずつおりました。
中でも大層評判であったのが、座長の息子でした。
座長の息子は道化者なのですが、人まねや曲芸が上手く、通りがかる誰をも笑顔にしてしまうのでした。
誰もが息子に笑わせてもらいたがるので、息子はいつも道化者の恰好をし、顔をおしろいで真っ白にしています。
おかげで、息子の素顔を知っているのは、家族のほかにはいないほどでした。

一座は誰もが陽気で明るく、街の人気者でしたが、幸せは長くは続きませんでした。
座長の家に誰かが火を放ったのです。
息子はどうにか逃げ出しましたが、座長とその妻、十五になる妹は助かりませんでした。
その上不幸なことに、息子は放火の犯人と間違われてしまったのです。
街の誰もが、座長の息子であることに気づかず、外から来たよそ者だと思ったためでした。


俺は座長の息子だ、何かの間違いだ。


繰り返す彼を、警吏たちが引き連れ、馬車に押し込んで連れて行きました。
自分はこれからどうなるのだろう。
小さく身体を丸めておびえる彼が連れて行かれた先は牢獄ではなく、隣国の王城。
命からがら火から逃れたままの姿の、彼の前に現れたのは、なんとその国の王様でした。


おまえは隣の国でも名の知れた道化者だそうだな。
この宮廷は気の滅入ることばかりで、私はこの頃笑った覚えがない。
これからは私を笑わせるために働いてはくれないか。
もしも受け入れてくれるのなら、この王城に住まわせてやろう。
ただし、決して私の許した場所以外には行ってはならない。


目を白黒させながらも、彼はここに至る顛末を語りました。
着せられた濡れ衣を晴らしたいと訴えると、王様はそれに、鷹揚に頷きました。
誤解がとけるようにとりはからうかわりに、と、あらためて王城勤めを求められます。
仕方なく、彼はそれを受け入れました。


かくして大道芸一家の看板芸人であったその男は、「王様のための道化者」となりました。


道化者は王様に、おしろいと化粧道具、王宮内にある余った布の切れ端を用意するようお願いしました。
渡された布を縫い合わせて道化の衣装を作った道化者は、それを身にまとい、鏡の前に座りました。
おしろいで顔を隠し、大げさに口紅を塗り、目元に涙のしるしを描きます。
すすけた顔とボロを着ていた青年が、見事に道化へと変身しました。

自分が悲しみに囚われているうちは、人を笑わすのは難しいものです。
ですが、なりふりかまわず働くことで、悲しみが癒されるということもまたあるのです。
道化者は目いっぱいにおどけ、曲芸を披露し、王様や、その周囲の者たちのしぐさをまねました。
王様は大いに喜び、道化に立派な衣装を用意しました。
王様を喜ばせるたび、道化には大量の新しい衣装が与えられました。
ひと月もする頃には、道化の部屋は衣装箱でいっぱい。
これ以上増えると部屋が衣装で埋まってしまいます。

あるとき道化は王様に言いました。
もう新しい衣装はいらない、と。
褒美に不満があるのかと返され、道化者は続けました。


王様、熟練の道化者は、ものや身なりで人を笑わせるのではございません。
わたくしが人を笑わすには、わたくしが何者であるかを隠すことができさえすればそれでよいのです。


王様はこの言葉にいたく感心し、道化者に、これからはどんな褒美がよいか尋ねました。
道化者はひとりぼっちの身の上ですので、友達がおりません。
道化者は、王様に友達がほしいとお願いしました。
王様は目を丸くした後、にっこりと笑いました。


友がおらぬのは私もだ。
我々は、おんなじであるな。


その日の王様の笑みは、道化が見た中でも特別にすばらしいものでした。
自分の芸でも、王様があんなふうに笑ってくれればいい。
それからは道化者は、より一層、王様に笑ってもらえるようにつとめました。
道化者の芸に満足した日には、王様は贈り物として、自分の話をしてくれました。
中には道化者が聞くにはあまりにも大きな物事もありました。
おそろしく、おぞましい話もありました。

そのきらびやかさに反して、富ある場所というのはなんと醜いのだろう。

ときに道化者は、王様の話に大変な嫌悪を感じることもありました。
例えば、王様の前では恭しく振る舞う家臣が、裏では口汚く王様を罵っていること。
王様はそれを知っていてなお、素知らぬふりで家臣の慇懃さを受け流していること。

どんなことがあっても、政がかかわると顔色ひとつ変えない王様のことが、道化者はたまに怖く思えました。
けれども決して、それを王様には言いませんでした。
王様から聞いた話も、道化者は誰にも他言しませんでした。
王様は、道化者の大事な友達だったからです。

王様は、道化者とおなじくらいに、さびしくて、ひとりぼっちでありました。
王様は未だ独り身で、家族がおりませんでした。
父親が亡くなったことで王位につき、母親は、それよりもっと前に亡くなったのだそうです。
父親には側室と、側室との間にもう一人息子がいるとのことでしたが、道化者は詳しく話を聞きませんでした。
自分の父親に、自分の母以外の妻がいると考えたとき、なんだがいい気分がしなかったからでした。
それでも王様は、誰もが健在であった頃の思い出を、道化者に話してくれました。
在りし日々を懐かしむ王様の顔を見ていると、道化者はどうしてか、家族を亡くした日の夜のことを思い出しました。


きっと王様も、何か癒されないかなしさを持っているのだろう。
それを、夜の闇にゆだねて眠ったことがあるのだろう。


王様の痛みのようなものを垣間見るたび、道化者は、どんな言葉を返すべきかわからなくなりました。
慰めるのもおかしいし、励ましたり助言をするなんてもってのほかです。
うんとうんと考えた末、道化者はこう言いました。


王様、わたくしはいつでも、王様のお傍におります。


顔をほころばせながら頷いてくれる王様のことが、道化者は大好きでした。



ところで、道化者の毎日は案外退屈なものでした。
王様との約束で、王城の敷地内をみだりに歩き回ってはいけないことになっています。
とはいえ、王様も忙しい身。
道化者と遊んでばかりもいられません。

柔らかな軟禁状態がほとほと飽きた道化者は、得意の変装をして、こっそり城内を探検することにしました。
先々ではいろんな身分の人間がいて、それぞれがいろんな噂話に花を咲かせています。
王様から聞いた通りの話、尾ひれ背ひれがついた話。
中には王様のことをよく思わぬものたちの、謀めいた内緒話さえありました。
なんでも、病気になったとしか思えぬよう、王様の食事に少しずつ、薬を混ぜてやるとかやらないとか。

怒った道化者は、戻ってからその話を王様に告げました。
「やぶへび」とはこのこと。
勝手に城内を歩き回っていたことがばれてしまい、道化者は王様に、大層怒られてしまいました。
みるみるうちに、しょんぼりと落ち込む道化者。


約束を破ったことを、どうかゆるしてください。
ですが聞いてしまった以上、王様に害なすもののことを伝えずにはいられなかったのです。


これほど王様を怒らせてしまっては、もうここにはいられない。
城を出ていこうとする道化者でしたが、王様はあわててそれを引き留めました。
そして、そもそもおまえから自由を奪い、限られた場所に閉じ込めた己が悪かったのだと、道化者に謝ります。


私はおまえが心配だっただけだ。
とっておきの場所に案内するから、どうかここに残ってくれ。


これからはいつでも来てよいぞ、と言われながら連れられた先は、王様だけしか入ることの許されない庭でした。
王様の好きな木々や花が植えられ、どうやっているのか、小さな泉まであります。
気持ちよく整えられたそのさまはどこか、故郷にある、道化者の好きだった場所に似ていました。
月桂樹や沈丁花があること、日差しの入り方、揺れる木や葉の香り。
ふいに、亡くなった家族を思い出し、道化者は泣きそうになりました。
王様がそれを見て、どうしたのだ、と道化者に尋ねます。

故郷が恋しくとも、あんな騒ぎの後では、いくら誤解が解けたところでもう帰れまい。
それに、ここを離れたら王様はまたひとりになってしまう。

道化者の様子をどう思ったのか。
王様は月桂樹をもてあそびながら、聞かせるともなく、こんな話をしました。



昔、ある国の王子には恋人がいた。
黒髪の美しい乙女で、ひそかに将来を誓い合っていた。
乙女のことを、王子はダフネと呼んでいた。
ダフネとはな、異国の言葉で、月桂樹と沈丁花の両方を指すのだそうだ。
なんでも、月桂樹の葉に、沈丁花のそれが似ているとかでな。

王子と恋人は話した。
月桂樹と沈丁花は親子のようだと。
月桂樹が父なら、それに似ているとたとえられた沈丁花は子にあたるのだな、と。
そしてまた二人で語らった。
月桂樹と沈丁花、どちらが好きかと。
月桂樹は料理に使え、沈丁花は春の先触れのように咲き、薫る。
月桂樹は勝者の冠になり、花が薬にもなる沈丁花もまた、「栄光」や「不滅」といった意味を持つ。

どちらかが一方を選べば、もう片方が残りを選び。
ならばと意見を翻せば、相手もまた然り。
戯れのようなやりとりを楽しみながら、二人は確かに心を育んだ。

ところが、二人の誓いはかなわなかった。
乙女のことを、王子の父親が見初めたからだ。
王子は父である王に逆らうことができず、乙女と会うこともかなわなくなった。
婚礼が決まってからというもの、王子のそばには王の近衛兵がつき、身動きがとれなかったからだ。

婚礼を翌朝に控えた夜のことだ。
王子の元には月桂樹の花の入った封筒が届いた。
乙女からのものであると、すぐにわかった。
月桂樹はな、葉と、花と、実で、それぞれ別の花言葉があるのだ。
月桂樹の花の花言葉は「裏切り」だ。
王子は己の不甲斐なさのせいで、乙女は心変わりをしたのだと思い、大いに悲しんだ。
乙女は王に嫁ぎ、男の子を身ごもったが、ほどなく王が身罷った。
王位継承第一位にあった王子は、王の座を継いだ。
玉座の間と、そこから続く王の間を譲り受けたとき、書斎の引き出しの奥である封筒を見つけた。
中には枯れた月桂樹と沈丁花の葉が入っていた。
同封の便箋には、褪せた文字でこうあった。


『ダフネの王は、どちらをお選びになりますか』


どうやら乙女は月桂樹の花の前に、この手紙と葉を、王子に宛てて送ったらしい。
それを、どこからか知った王が手に入れ、王子に届かぬよう握りつぶしたというわけだ。



ひどい話ですね、と、道化者は王様に言いました。
王様は少し笑って、そうだな、と道化者に返し、続けました。


だが不思議だとは思わないか。
横恋慕した相手が恋人に宛てたものなのに、なぜ大事にずっと持っていたのか。


その答えはとても、一言では説明できないもののように思われました。
道化師は考えました。
もしもすぐに、手元に月桂樹と沈丁花が届いていたとして、自分ならどちらを選ぶかと。
これもまた、答えようのないものだと道化師は思いました。
選ぶべきなのは月桂樹でも沈丁花でもなく、愛する乙女だからです。

道化者に話しかけてはいるものの、王様は、未だ月桂樹から目を離さないでいます。
道化者はだしぬけに、王様、お茶が飲みたいです、と言いました。
王様は拍子抜けした顔をして、その後、道化者に笑顔を見せました。
それで、この話は終わりました。
道化者は、内心ほっとしました。


その王子様は、王様のことですね、と、確かめなくて済んだので。



後になって道化者は、王様に、城内をうろついていた時の詳細を喋らされました。
変装して、部外者がうろついているようには見えないようにしていた、と答えました。
どれほどのものか見せてみよ、というので、道化者はおしろいを落とし、化粧を変え、衣装を拝借して、王様の近衛兵に変装しました。
道化者は話し方といい立ち振る舞いといい、本物そっくりでした。
最初に現れたときには、王様でさえ騙されたほどでした。
道化者は王様にお願いしました。
せめて、あの噂の真偽だけでも調べさせてほしい、と。
王様に害なすようなことを考えているものが本当にいるのなら、それが誰かを突き止めたい、と。
王様は道化者の熱意に、ついつい負けてしまいました。

道化者は慎重に調べ上げました。
そして、残念なことに、誰かが本当に王様を毒殺しようとしていることを突き止めました。
目的は、王の座。
犯人についても、道化者は目星がついていましたが、証拠がありません。
何かないかと探っている間に、王様が倒れてしまいました。
道化者の捜査が間に合わず、王様に毒が盛られてしまったのです。

幼少のころより毒への耐性をつけるよう、身体を慣らされていた王様は、重篤な状態のまま命を繋いでいました。
王様は高い熱が何度も続き、うなされる日々でした。
道化者はけんめいに看病しましたが、何日経っても良くなりません。
疲れのせいで、道化者も、王様と同じくらいやつれてしまいました。

今夜が峠となるだろうという夜、王様は枕元に道化者を呼び寄せました。
良くなってからにすべきだと止めても、大切な話だと言って聞きません。
今までずっと、話すことができずにいた、などと言いつのられ、道化者は不安になりました。
なんだか、これが最後になってしまいそうで。
少しでも王様に元気になってもらおうと、道化者は張り切っておしろいをはたき、化粧をしました。
でも、寝台に横たわる王様を見て、化粧は無駄になりました。
やつれきった王様の痛ましさに、道化者はぽろぽろと泣いてしまったのです。
目元の化粧がにじむのを、道化者は衣装の袖で拭いました。
ひどく顔面を汚す道化者に、王様は苦笑しながら言いました。
言われてみれば、おまえの素顔をきちんと見たことがなかった。
化粧を落としたところを見せてはくれないか。

城に来てからも、道化者がいつでも化粧をしていることには変わりがありませんでした。
城内を歩くときは誰かに変装し、王様の前ではおしろいで、念入りに素顔を隠していたので。
道化者自身も、自分の素顔を見ると、何か物足りないような気持ちになるのでした。
なんというか、調理されていないままの食材や、畑から取ってきたばかりの、土のついたままの野菜を眺めているような。

ほかならぬ王様の頼みです。
道化師は、化粧を落として王様に素顔をさらしました。
王様は、なんともいえないものを含ませた笑みを作りました。



道化者の素顔は、王様と瓜二つでした。
顔だけでなく、背丈や姿かたちまで。



最初に王様に会った時から、道化者はそれに気が付いていました。
だから道化者は、これから話されることの想像がついていました。
きっと自分は、王様の影武者として呼び寄せられたのだろう、と。

しかし、王様の語った秘密は、それどころではありませんでした。
道化者は、王様の実の双子の弟であったからです。

この国には、双子は国に禍をもたらすとの言い伝えがあったそうです。
そのため、道化者は殺される運命にありました。
それを憐れんだ先代の王妃は、己の子を、大道芸をしながら諸国をさすらっていた若い夫婦に託したのでした。
妃は夫婦のため、隣国に土地を買い家を建て、そこで暮らしていけるようにとりはからいました。
道化者の家に火が放たれたのは、王様の血に連なるものを絶やそうとするものによる悪事でした。
その犯人と、王様に毒を盛った犯人は同じに違いありません。

ということは、王様は、もうずっと前から、誰が己を狙っているのかを知っているのではないか。

はっとした道化者に、王様は力なく頷きました。
そして道化者に言いました。

おまえの命を救ったのは、ほかでもないおまえの芸だ。
あちらには、おまえが生きていることは知られていない。

道化者は悟りました。
どうしてあの夜、自分はこの国に連れてこられたのか。
どうして王様は「自分の許した場所以外には、どこにも行ってはならない」と言ったのか。


宮廷(ここ)にいるのは愚か者や臆病者、欲望に醜く歪んだ獣たちばかりだ。
だがな、友よ。
誰よりも愚かで臆病なのも、醜く歪んでいるのも、ほかでもない、この私なのだ。


無念を浮かべ眉根を寄せる、王様の目尻が光りました。


どうかゆるしてくれ。
おまえを弟とさえ呼べなかった私を。


道化者は王様の手を握りました。
王様はその顔を、安らかに青ざめさせていきました。



翌朝、王様の声に側近が目にしたのは、奇跡的に一命を取りとめ、寝台で上体を起こした王様の姿でした。
その傍には、王様にすがるようにして倒れこんだ、道化者のなきがらがありました。
道化者の顔にはいつものように、おしろいと、口紅と、目元に涙の形のしるしが描かれております。
王様は側近に言いました。


誰かが私に毒を盛った。
私がそれを信じなかったせいで、道化者は死んだ。
私の代わりに毒を飲んだのだ。


そして、道化者を弔うように側近に命じました。
道化者は誰にも見つからぬように故郷に運ばれ、丁重に葬られました。
墓石には道化者の名前ではなく、『いつもあなたの傍に』という一文だけが刻まれました。


程なくして、王様の元を前王の側室が訪ねてきました。
回復のお見舞いに来たそうです。
ですが、その表情は信じられないものを見るかのようでした。
鷹揚に見舞いの礼を言う王様の顔を、側室はじろじろと確かめるように眺めています。


どうした、私の顔を、そなたは忘れてしまったのか。


気を悪くするでもなく尋ねてくる王様。
側室は息を呑みました。
側室が返答に窮している間に、王様はあるものを持ち出しました。
そこには一枚の植物の葉。


今でもわかるか。
これが月桂樹と沈丁花のどちらであるか。


王様は尋ねながら、側室に葉を渡しました。
月桂樹でも沈丁花でもない、しかしそれらに似た、「ゆずり葉」の若葉を。
側室は顔を伏せ、美しい黒髪に、己の表情を隠しました。
指先で葉の面を撫でる側室を見つめながら、王様は彼女の返答を待ちました。





ある古いお城の庭。
黒髪の乙女が恋人と寄り添い、語らっておりました。
二人の重なった手の中には、二枚のよく似た葉と、手鞠型に固まった、強く芳しい小さな花。


ダフネよ、今日は随分と機嫌がよいな。

ええ、素敵なお話を読んだのです。
お聞きになってくださいませ。

なんだい、教えておくれ。


ダフネと呼ばれた乙女は、遠い異国の神話を語りました。
恋の矢を受けた神様と、その神様の求愛を拒み、木に姿を変えた神の娘のお話。
それゆえ語源をさかのぼると、己の「ダフネ」という愛称は、二つの植物を意味することになるということ。
そしてそれは、どちらも己の愛する植物であるということ。


ね? とても素敵だとは思われませんか。
わたしが一番好きな花の名前に、そんな由来があるなんて。

初めて聞く話だが、なかなか面白い。
そなたは物知りだな。

まぁ、「王様」ったら。

こら、やめないかダフネ。
私はまだ「王」ではない。

そう仰らないで。
ご存知でしょう。
わたしにとって、「王」と呼ぶにふさわしいのは誰か。


王と呼ばれた若い男は、こそばゆさと罪悪感を交わらせ、乙女に笑みを返します。
乙女は男に甘えるように、己の身体をもたれさせました。


決して、お忘れにならないでくださいませ。
ダフネの王様は、あなたさまだけです。


二人の影が一つになるその足元で、こぼれ落ちた沈丁花が薫っていました。


(SS)ろくちゃんに会いに

「やあやあ、これはまたずいぶんと晴れたなぁ」


空を仰ぎながら、むうさんは着ていた茶色のコートのボタンを外しました。

この人は、「むうさん」といいます。
むうさんはお出かけの途中です。
今日は久しぶりに、大すきなろくちゃんに会いに行くのです。
ろくちゃんは、森を抜けた先、開けた丘の上の、一本だけ、大きな木のある場所にいます。
おみやげは、全部で五つ。
ふさつきのほしぶどうと、バニラの香りのたばこと、コーヒーと、フランスパンと、大きなバターのかたまり。
全部、ろくちゃんがあこがれていたものなのです。


むうさんとろくちゃんは、学校に通う前から友達でした。
二人のお家の近くに、大きな木のある―これから行こうとしている―丘があって、いつもそこで遊んでいたのでした。
ろくちゃんの口癖は、「おとなになったら」でした。
ろくちゃんにはやりたいことがたくさんあったのですが、おとうさんとおかあさんに、いつも「おとなになったらね」と止められるのです。


「おとなになったら、ふさにくっついたまんまのほしぶどう、自分でちぎって食べるんだ」

「おとなになったら、こないだ見たおじさんみたいに、もくもくっ、て、たばこをすうんだ」

「おとなになったら、自分でコーヒー、ふーふー、ってして飲むんだ」

「おとなになったら、大きいまんまのフランスパンに、バターをいっぱいぬってかじるんだ」


二人でお気に入りのミニカーを走らせているとき、きまってろくちゃんは言うのでした。

ろくちゃんが小学校の二年生になるとき、むうさんは引っ越しで、遠くに行かなくてはならなくなりました。
さいごのお別れの日、ろくちゃんとむうさんは、お互いの一番すきなミニカーをこうかんしました。


ずっと忘れないからね。
おとなになったら、ぜったいにまた会おうね。


ろくちゃんとむうさんは、笑って約束をしたのでした。
お顔は二人とも、なみだとはなみずでべしょべしょでした。



「それにしても、あったかいなぁ」


朝早くにお家を出たむうさんはうれしそうです。
のんびりぽかぽか、道を歩きます。
しばらくすると、道の先に何かが見えてきました。


「なんだろう、はねてる」


近づいてみると、それは一匹のキツネでした。
やせていて、薄汚れていて、ちょっとくさそう。
そんなキツネは、ぴょんぴょん、と、何かにむかって何度も跳び上がっています。
一生けんめい前足を伸ばす先には、ぴかぴかに実ったきれいなぶどう。


「こんにちは」

「……」

むうさんはキツネに話しかけましたが、キツネは全然むうさんに返事をしません。
まるでむうさんに気づいていないかのように、ぶどうに向かってぴょんぴょんしています。


「このぶどうがほしいの? おなかがすいているのかい?」

「……」


やっぱり、キツネからの返事はありません。
腹をたてたむうさんは、腕を伸ばしてぶどうを取り、一粒口にほうりこみました。


「うわぁ、すっぱい!」

本当に、ものすごくすっぱいぶどうだったので、むうさんの顔は思わずくちゃくちゃになりました。

キツネはその顔にびっくりした後、ようやくむうさんに言いました。


「ふん、知ってたやい! そんなこと!」


同時に、キツネのお腹も言いました。


―ぐうぅ~!


お腹の音にじゃまをされたキツネは、気を取り直してもう一言。


「よけいなことするなよ! にんげんのくせに!」

―ぐぅ~! ぐるるぅ~!


今度はさっきよりも、もっと大きな音でお腹が鳴りました。
恥ずかしくなったキツネは、ぴょん、と、茂みの中にかくれました。


「お腹がすいているなら、こっちのぶどうをあげよう。
しわしわしてるけど、甘くておいしいよ」


むうさんは、ろくちゃんへのおみやげのほしぶどうを、少しだけちぎって地面に置きました。
キツネからの返事はありません。
もう、茂みの奥を進んで、いなくなってしまったのかも。



「ごめんよキツネさん。じゃあね」


むうさんはそう言って、先に進むことにしました。



「ふう、ちょっと、暑くなってきたなぁ」


どのくらい歩いたでしょう。
あごの下をぐい、とぬぐい、むうさんは言いました。
茶色のコートを脱いで、腕にひっかけます。
ポケットからハンカチを出してひたいの汗も拭きます。
すると、そばの茂みから、三角の耳がちょこん。
みおぼえのあるその形、さっきのキツネ。


「よう」


わざとらしく首をかしげて、キツネはむうさんに話しかけます。
ふん、さっきは返事もしなかったくせに。
むうさんは気づかぬふりをして、ハンカチで首をごしごし。


「なあ、おまえ、どこに行くんだい」

「……」

「さっきのあれさ、すっごいうまいのな」

「……」

「ちょっとかたいけどさ、生のぶどうよりうんと甘いの。
おいら、あんなのはじめて食べたよ」

「……」

「なんだよう、返事くらいしろよう」


キツネはきっと、もっとほしぶどうをもらいに来たのだろう。
だめだめ、あれはろくちゃんへのおみやげ。
きっとキツネにあげたら、ぜーんぶ食べられてしまうにきまってる。


「……へっ、やぁっぱり、にんげんはいやなやつなんだよな。
あーあ、せっかくお礼に、道あんないしてやろうと思ったのに」


かってなことばかり言うキツネに、むうさんはようやく言い返します。


「あんないなんていらないや。ぼくは昔、この近くに住んでいたんだから」

「へぇ、そうかい。道に迷って、困っちまったって知らないぜ」


いじわるな言葉をぶつけて、キツネはぴょん、とまたいなくなってしまいました。
あーあ、へんなのに会っちゃったなあ。
むうさんは気を取り直して、道を先に進みます。
が、しばらくすると、くさむらのなかにまた三角の耳。
むうさんに話しかけて、言い返して、またけんか別れして。

そう。
キツネはこっそり、むうさんの後を、ずぅっと追いかけていたのでした。
そしてむうさんも、なぜだか、それを追い払おうとしませんでした。




「……あれ、どっちだったかなぁ」



むうさんの歩みが止まってしまったのは、あるわかれ道でのこと。
ふたまたになっている先の、どちらが正しいか、わからなくなってしまったのです。


「おいキツネ」

「なんだ、にんげん」


三角の耳をぴこぴこさせて、キツネが返事をします。


「この先にある、大きな木が一本だけ立っている丘を知らないか。
ぼくはそこに行きたいんだ」

「ああ、そこなら知ってるぜ。
おしえてやってもいいけど……」

「なんだよ、早く言えよ」


キツネは黙ったまま、むうさんの荷物を横目で見ています。


「仕方ないなぁ」


ろくちゃんごめん。


心の中であやまりながら、むうさんは少しだけ、ほしぶどうをちぎってキツネにあげました。
正しいのは左の道とのこと。
むうさんとキツネは、いっしょに左に進みました。
ところがいくら進んでも、あの思い出の丘が見えてきません。


「あれ、おかしいなぁ。この道、こんなに遠かったかなぁ」


不安な気持ちを我慢しながら、むうさんはどんどん歩きます。
でも、やっぱりあの場所に着かないのです。


「キツネ、おいキツネ、いるんだろ」

「なんだよう」

「おまえ、本当にこっちで合ってるんだろうな」

「合ってるさ、もう少しだよ」


同じようなやりとりを何度かして、また進んで。
でも、いくら歩いても歩いても、あの場所は見えません。
そうするうちに、すっかり日が暮れてしまいました。
今夜は野宿をするしかありません。


ろくちゃんごめん。


むうさんは、おみやげのフランスパンを少しだけちぎり、バターもひとかけだけとって、食べました。
コーヒーも、ちょっと飲みました。
たばこも、少し吸いました。
昼のあたたかさがうそのように、夜はとても冷えました。
がたがたふるえて丸まっていると、キツネがそばにやってきて、むうさんのふところに入り込みました。
キツネも寒いのでしょう、むうさんにぴったりくっついて、ふるふるとふるえています。

むうさんはキツネにとても怒っていました。
きっと、ぶどう欲しさに『うそ』を言ったのだと。
ですが寒くて寒くて、コートを着込んでえりを立てたくらいでは、どうしようもないのです。
がまんできず、キツネを迎え入れました。
キツネの毛はほこりっぽくて、土の匂いがしました。
くさくはありませんでした。
ひとりよりはいくぶんあたたかでしたが、寒さでどうにも眠れません。
仕方なく、むうさんはキツネと話をして夜を明かしました。
それに、少し心配していたのです。
もしかして、眠っているすきに、キツネにろくちゃんへのおみやげを、全部とられてしまうのではないかと。

むうさんはキツネに話しました。
ここにはろくちゃんに会いに来たこと。
ろくちゃんとの約束のこと。

キツネはむうさんの話を聞いた後、自分のことを話しはじめました。
猫と文鳥の話でした。


キツネの知っている猫は、メスの三毛猫でした。
緑の目がきれいなのだそうです。
キツネの知っている文鳥は、真っ白いメスの文鳥でした。
赤いくちばしがきれいなのだそうです。
三毛猫と文鳥は、どちらもキツネがすきだとか。
文鳥はキツネにとまってかわいらしくさえずり、三毛猫は身体をすり寄せてのどを鳴らす。

キツネは猫のことも文鳥のことも、同じくらいすきでした。
だから、どちらにも言いました。
君のことはすきだ。
でもあの子も同じくらいすきなんだ。
だから、どちらかだけと仲良くはしない。


三毛猫はやきもちを焼きました。
白文鳥のように美しくさえずり、キツネにほめてもらいたかったから。
高く高く空を飛べることが、とてもすてきだと思ったから。
白文鳥もやきもちを焼きました。
三毛猫のように、キツネと鼻の先を合わせて、キスをしてみたかったから。
光に合わせてひとみの形が変わる、あの緑がとてもすてきだと思ったから。

きっかけは、どちらだったのか。
あるとき、猫と文鳥はとてもひどいけんかをしてしまいました。
猫は文鳥の羽をひっかき、文鳥は猫のひとみをつっつき、お互いに、きずだらけになってしまいました。
止めに入ったキツネは、猫と文鳥に言われたそうです。
こんなことになったのはあなたのせいだ。
どうしてわたしをえらんでくれないの。
わたしはこんなに、あなたのことがすきなのに。


「なあ、ムー」

「なんだよ」


とつぜんそんな呼びかたをされて、むっとしながらむうさんはこたえました。
なんだよ、なれなれしいなぁ。
さっきまで、「おい、にんげん」だったくせに。


「おいら、どっちとなかよくしたらよかったんだ?」

「そんなこと、ぼくが知るわけないだろう。
お前のすきにしたらいいじゃないか」

「すきにしたぜ。どっちもおんなじくらいかわいかった。
だから、どっちとも、おんなじくらい仲良くした。
それがいけなかったのか?」

「ばかだなぁ。猫も文鳥も、おまえと『いちばん』仲良くしたかったんだよ。
だからけんかになったのさ」

「でも、『いちばん』が決められないときだって、あるだろうよ」

「まあな」

「にんげんは、そういうときにはどうするんだ?」

「そうだな……」


ねころんだまま腕を組んで、むうさんは少し考えました。
考えましたが、これはなかなか、むずかしいことです。


「きっと、おまえと同じことをしたんじゃないのか」

「そうか?」

「たぶんな。……それで、猫と文鳥はその後どうなったんだ?」

「……知らない」

「なんでさ」

「おいら、逃げてきたんだ。両方にせめられて、ひどいひどいって、たくさん言われて。
だから言い返してやったんだ。なんだいなんだい、ふたりとも、かってにけんかしたくせに、って。
おいらを困らせるようなのなんて、どっちも嫌いだ、って」

「怒ってなかったか、三毛猫と文鳥」

「知らない。泣いてた」

「いいのかおまえ、もどらなくて」

「おいらのかってさ。にんげんのくせに、なまいきだぞ」


むうさんからすれば、なまいきなのはキツネのほうです。
何か言い返してやろうかと思いましたが、むうさんはやめました。


「ぼくは明日も歩くぞ。ろくちゃんがまってるからな。」

「おいらも行く」

「ついてきてどうするんだ」

「うるさいやい、どうせおまえ、ひとりじゃ帰れないだろう」

「帰るもなにも、おまえの言うとおりに進んでこんなことになったんじゃないか。
ははぁ、さてはおまえ、ぼくのことをばかしたな」

「なんだと、なんてにんげんだ。
ばかしただなんて、ひどいやつだな」

「……」

「とにかく、おいらはおまえについてくぞ。
この森をぬけるまで、ぜったいについていくんだからな」


すきにしろ、と、むうさんはキツネに言おうとして、やめました。
どうしてやめたのか、むうさんにもわかりませんでした。


「おいら、さびしくなんかないんだ。
猫がいなくても、文鳥が、いなくても。
わかってるんだ、みんながおいらのこと、わるいやつだって言うんだ。
おいら、平気さ。慣れてるんだ、『わるもの』には。……慣れてるんだ」

「……そうか」

「そうだ」


きつねがもういちど、ちいさく「そうだ」とつぶやいたところで、この話はおしまいになりました。



明け方の、寒さがひときわきびしくなるのが過ぎたころ、むうさんとキツネは起きて、また歩きはじめました。
歩けど歩けど、見えるのは似たようなところばかり。
まるで、おんなじところをぐるぐる回っているみたい。
二日目にもなれば、足も痛いしひどくお腹もすきます。


ろくちゃんごめん。


心の中で呟きながら、少しずつ、フランスパンとぶどうを食べ、コーヒーを飲みました。
ぶどうとバターは、たまにキツネにもあげました。


本当は、ろくちゃんのなんだぞ。


キツネがおいしそうにほしぶどうをかむのをを見ながら、むうさんは心の中でつぶやきました。



真昼を少しすぎて、ほしぶどうの残りが、あとほんのひとつかみになる頃。
むうさんの目の中に、懐かしい景色がとびこんできました。
少し小高い、開けた野原。
その真ん中にある、大きな木。


「わぁ。キツネ見ろよ、やっと着いた」


つかれた顔を笑みでいっぱいにして、むうさんはキツネに言います。
かけ出したくてたまらないのですが、たくさん歩いた後の上り坂はこたえます。
くたくたで、足が重たくて走れません。
もどかしくもうれしい気持ちで歩みをすすめるむうさんですが、キツネはかなしそうです。
うれしいむうさんは、それに気づきません。


「ムー」

「うわぁ、なつかしい! ああ、早く行きたいなあ」

「なあ、ムー」

「キツネ、おまえなにしてるんだよ、早くこいよ」

「ムーってば」

「なんだよさっきから、うるさいなぁ」

「本当に行くのか」

「当たり前だろ、ろくちゃんが待ってるんだ」

「だめだ、行くなよ、ムー。
もどろうよ、おいらといっしょに」

「なに言ってんだ」

「行っちゃだめだよ、ムー。
やめよう、おいらと帰ろう、ねえ、ムー。」

「なんだよおまえ。行きたくないならそこにいろよ。
ぼくは行くぞ、約束したんだ、また会おうねって。
ろくちゃんと約束したんだ。ぜったいに、おとなになったら、って」

「……ムー……」

「あ、花が咲いてる。これ少しつんでいこう。
ろくちゃんはピンクと黄色と、白いお花がすきなんだ」


止めるキツネをふりきり、むうさんはがんばります。
途中に咲く花をつみながら、一歩ずつ、坂道を上ります。
キツネは立ち止まり、むうさんのせなかをしばらく見つめていました。
むうさんは、一度もキツネの方を振り向きません。
キツネはゆっくりと、来た道をもどり、森の中に消えてゆきました。


丘のてっぺん、大きな木の真下までやってきたとき、むうさんはぎゅっと目をとじました。
ふかく息をはきますが、むねがどきどきするのがとまりません。




「……やあ、ろくちゃん」

―あ、むーちゃん! むーちゃんだあ!

「ひさしぶり。ごめんよ、おそくなって」

―ぼく、まってたよ。むーちゃんのこと、ずっと

「待たせてごめんね。おみやげ、たくさん持ってきたよ。
でも、とちゅうで道にまよってね。みんな食べかけになっちゃったんだ」

―あはは、むーちゃんたら、しょうがないなぁ。

「だからこれ、さっきつんできたの。
ろくちゃんににあう、きれいでいいにおいのお花だよ。」




むうさんはそっと、つんだ花の束を、木の根元の、地面に置きました。
そこにあるのは、少しつたのからんだ白い石。
ちょうど、小学校で使う、机くらいの大きさの。




「ろくちゃん……」


待たせてごめんね。
約束、守れなくてごめんね。
ろくちゃん、ごめんね。


いつのまにか、むうさんの顔はなみだでぬれていました。


引っ越してすぐに、新しい学校で、むうさんには友だちがたくさんできました。
友だちはみんな、むうさんに、ろくちゃんがむうさんにつけたのとはちがうあだ名をつけました。
最初はへんなかんじでしたが、むうさんはすぐにそれが気に入りました。
むうさんは毎日楽しく過ごして、どんどん大きくなって、おとなになりました。
女の子のお友だちができて、とっても仲よしになって、大すきになって、いちばん、大すきになって。
そのころにはもう、むうさんはろくちゃんのことなんて、すっかり忘れてしまっていました。

ろくちゃんがおとなになれなかったのをむうさんが知ったのは、だから、ずっとずっと、後になってからのこと。

大すきな女の子とけっこんして、むうさんにはこどもができました。
とってもうれしいことでした。
でも、そのこどもは、おとなになれませんでした。
ろくちゃんとおんなじ年のまま、むうさんのところからいなくなってしまったのです。

むうさんとおくさんは、とってもかなしくなりました。
かなしくてかなしくて、かなしいのでいっぱいで。
大すきでいっしょになった人を見るたび、いなくなってしまったこどもを思い出して、またかなしくて。
それでも、むうさんはやっぱり、おくさんのことがとてもすきだったのです。


それなのに。


むうさんの知らないうちに、むうさんのおくさんは、むうさんではない人と仲良くなっていました。
むうさんは怒りました。
怒って、とてもかなしくなりました。
おくさんをせめました。
おくさんは泣きました。

あなたと一緒にいると、いなくなったこどもを思い出す。
それがとてもつらい。
あの人といると、あの子のことを忘れていられる。
だからといって、あなたを嫌いになんてなれない。
悪いのはわかっている。
でも、どうしたらいいのか、わからない。


どうしたらいいのかわからなくなってしまったのは、むうさんも同じでした。
むうさんはとほうにくれて、からっぽになってしまいました。
おしごとをがんばる気持ちも、おいしいものをたべたい気持ちも、なんにもなくなってしまいました。


もう、消えてなくなってしまおう。
からっぽのままここにいても、どうしようもない。


むうさんはおくさんに気づかれないよう、少しずつ、したくを始めました。
「いなくなる」じゅんびです。
いらない持ち物を捨てたり、人にあげたり、売ってお金にしたり。
そのとき、ひきだしの奥から見つけたのが、ろくちゃんのミニカーでした。



ねえ、ろくちゃん。
ぼく、おとなになったよ。
ろくちゃんがしたかったこと、みんなできるようになったよ。
でもね。



ほっぺたをぬらしたまんま、むうさんはろくちゃんのとなりにこしかけ、木に身体をもたれました。
今日もとっても、とってもいい天気でした。
不思議なほどにあたたかい風がそよぎ、むうさんは、そっと目を閉じました。
本当は、むうさんはもう、ろくちゃんの顔も声も、思い出せないのでした。
なのにろくちゃんに会いたくて、会えなくて、いつまでも涙がとまらないのです。

むうさんはそのまま、立ち上がることができなくなってしまいました。
たくさん泣いて、たいようが沈んで。
足もとからしんしんと、寒さがむうさんをつつみこんでも。
むうさんはもう、なんにもかんじませんでした。




思い出の丘を夜がのぼり、青白い月明かりが、大きな木と、その根元にいるむうさんと、ろくちゃんのことを照らす頃。
むうさんに置いて行かれたキツネが、丘にむかって坂道を歩き始めました。


慣れてるんだ、『わるもの』には。


丘のてっぺん、木にもたれて目をとじたむうさんは、眠っているように見えました。
キツネはむうさんのコートの中からふところに入りこみ、むうさんに言いました。


「おいらはキツネだ。キツネはな、うそつきでいじわるで、あまのじゃくなんだ。
そんで、にんげんのことなんか大嫌いなんだ。」


むうさんは、うごきません。
だまったまま、目をとじたまま。


「起きろよ、ムー。あのほしぶどう、またおいらにくれよ」


キツネはぎゅっと、むうさんに顔をうずめました。

(連載)傍観者の幸福5

かなりの怪我ではあったものの、持ち前の体力もあり、男は奇跡的に命をとりとめました。
男が身体を起こせるようになるのを見計らい、二人は王都に戻りました。
厚かましいことに、男は怪我を理由に女のねぐらにあがりこんでしまいました。
ふた月が経つ頃にはすっかり回復し、またもとのように、王室付きの密偵として働きはじめました。
怪我が癒えても男はそのまま、女のねぐらに居座っておりました。
断るにもなにか不都合があるのかと聞かれると、大した理由が見つかりません。
なし崩しに、女は男との共棲みを許してしまいました。

男は女と暮らすようになって、女の背中を眺めることが一層多くなりました。
部屋の窓ガラスから外を見ているとき、女がいつも、片手を窓に添える癖にも気が付きました。
符合したのは、いつかに女に尋ねたときのことでした。

女と組み始めて間もない頃、男は女に聞いたことがありました。
全てを見て伝えるというのは、たいそう残酷で過酷なことではないかと。
女が記憶すべきものは、大概がおぞましく、恐ろしく、むごたらしいものたちでありました。
時に男でさえ目を背けたくなるような惨状を、女はいつも、あなぐらのような瞳でもって、紙に写し取ったように覚え、王のために持ち帰るのです。
つらくはないのかと女に聞くと、女は冴えて表情のない顔のまま、首を横に振りました。


すべてはガラスの向こうのこと。
己のこの手が届くようなものではない、と。


それは王の婚礼の日、今にも泣きだしそうな顔で、女が呟いたこととも通じておりました。
窓の外から見える人の営みは、女が決して手に入れることのできないものだったのです。
女の手が届かぬもの、それは人の心であり、人並みの幸福でした。
ささやかで柔らかであたたかい、壊れやすくて眩しいものたち。
女が王に仕えるために、捨てなければならなかったもの。
残酷な事象の傍観者として生きるうちに、女が手を伸ばすことを諦めてしまったもの。

感情の見えない瞳のまま、一心に窓の外を見つめる女の姿に、男は胸が締め付けられる思いがするのでした。


女は男より早起きで、何もない日は早朝から外を眺めおろしています。
ある日の朝もいつものように、ガラスに手をつき、人の営みをじっと見つめていました。
女のその後ろ姿は、親とはぐれた幼子のようでありました。
引き寄せられるように、男は女を、背中から抱きしめました。

見ているだけでいいのか。

驚いたのでしょう、密着してくるぬくもりに、女の身体が強張りました。
それに気づいていないかのように、男は言葉を重ねます。

お前は自由だ。
何にも縛られることなどない。
欲しければ望めばいいのだ。

女は振り向きも答えもしませんでした。
それでも男には、女の心がわかっていました。
女は戸惑っていました。
己の手には何も掴むことができないと、ずっと思っていたのです。
掴みたいものさえ、以前の女にはありませんでした。


ならば今の己は、一体何を欲しがっているのだろう。


女を背後から抱きしめながら、男は穏やかに、己に比べて華奢な腕をさすっています。
男の手は剣を持つ者らしく、大きく硬く、かわいておりました。
ひどく遠慮がちな動きで、女が男のそれに己の手を重ねました。
男は一層強く女を抱きしめ、応えました。
求めを受け入れるように、その心に寄り添うように。



ここにいてくれ。
もう少しだけでいい。



女はそっと、俯きながら呟きました。
恥じ入るように、小さな声で。
祈りにも似た女の声音に、男は女のうなじに柔らかく顔を埋めました。



(連載)傍観者の幸福4

男が女をかばって深手を負ったのは、王の婚礼からまもなくのことでした。
敵が雇っていた傭兵が、男のかつての仲間だったのです。
五分の力量を互いにぶつけ合い、勝利を得たのは男でした。
最期のあがきとばかりに、敵が放った渾身の一撃は、女を狙っておりました。
男は身を挺して女を守り、身体を大きく斬られてしまいました。
とどめを刺したものの、男は地に倒れ伏し、痛みに低く呻いて苦しんでいます。
ぞっとするほどおびただしい血が流れ、男の服や地面を染めています。
苦痛に呼吸を乱しながら、男は女に言いました。

俺を捨ててひとりで逃げろ。
この傷では足手まといになる。

女は言葉に応えることなく、久しく使わずにいた―男に守られるようになって―短剣を抜き、男の首筋にあてました。

楽になりたいか。

女は己の声に背を震わせました。
ひどく静かで優しい、凪いだ声音でした。
冷たく鋭い刃を当てられながらも、男は屈託なく笑いました。

莫迦を言うな、誰が死にたいものか。

けれどそう答えた刹那に、男は口からも血を吐きました。
不吉な赤に、女の短剣と手のひらが染まりました。
半身を抱き起された姿勢のまま、女を眺めながら男は思いました。


もしかしたら、女は死にたかったのかもしれない、と。
それももう、ずっと前から。


それでも女がうまく逃げおおせることを祈り、男は青白い顔で目を閉じました。
二度と目覚めることはないかもしれないと思いながら、遠ざかる己を感じていました。



予想が外れたことに気付いたのは、見知らぬ部屋の中でのこと。
男は見覚えのない部屋の寝台で、傷を手当てされて横たわっていたのでした。
窓から光の入るそこは、大層散らかっておりました。

血まみれの服や手ぬぐい、空になった薬瓶、汚れのこびりついた食器。

首を回してあたりの光景を確かめた後でようやく、己の傍で眠っているのが女であることに気付きました。
寝台の横に椅子を置いて腰掛け、上肢を褥に突っ伏して。
小さく身じろぎをすると、それにつられるように女が目を覚ましました。

ひどいありさまだ。

丸く目を見開いて己を見つめる女に、男は笑って見せました。
途端に、女の両の眼から滴が落ちました。
雨のようにとめどなく、女は涙を流しました。

私はもう終わりだ。

無表情に泣きながら、女は言いました。
己はこれ以上、王の役に立つことはできない。
己はおかしくなってしまった。
お前にあの日助けられてからだ。
なぜあのとき私を助けたりしたのだ。


わたしはきえたい。


言うなり女は、褥に再び顔を伏せて泣き崩れてしまいました。
溜息をひとつ吐き、男は女の頭を撫でました。


たすけてくれて、ありがとう。


泣きじゃくる女に向かい、男は吐息をもって伝えました。
手のひらに感じる、女の後頭部の丸みの小ささを、男はひどく切なく思いました。



つづく

(連載)傍観者の幸福3

こうして、女は男と共に王に仕える事になりました。
今まで通り、女は王の求める全てを見、聞き、伝えました。
男はよく女の身を守りました。
彼は恐ろしく剣の腕に優れているのです。
男がその身を敵の赤で染める間に、女が王からの密命を遂行する。
そのようにしていくつもの任務をこなすうちに、季節が流れて、過ぎていきました。


即位から12年が経ったころ、王はようやく王妃を迎えました。
その座を巡っては長い間、王宮内で沢山の野心が渦巻いておりました。
剣呑な野望たちを打ち払い、王はやっと、己が心を捧げた姫を妻とすることができたのでした。


王の隣に並び立つ妃を、女は何度か、そっと盗み見たことがありました。
王妃に選ばれたのは、とび色の瞳が美しい、とある貴族の一人娘でした。
落ち着いた物腰と優雅な立ち振る舞い、言葉の端々にのぞく深い知性。
妃の雰囲気はとても、女が忠誠を捧げる王に似ていたのでした。

国の誰もが祝福する王の婚礼の日も、女はいつものように、二人を眺めておりました。
誰にも知られぬ場所から、穏やかな微笑で妃を見つめる王と、美しい妃の姿を。
ただひとり、女を守る男だけが、二人の姿を瞳に映しつづける女の、背中の小ささを知っていました。

女にとって、すべてはガラスの壁の向こうの出来事でありました。
ゆえに何某の感慨もないという女に、男は言いました。
おまえは己の顔を見たことがあるかと。


今己がどのような顔をしているか、わかっているか。


女は男を振り返りました。
何も思わずにいるのなら、何故そのようにつらそうなのだ。
男はそう言うと、女が答えるのを待たず、眺めていた窓のカーテンを閉めてしまいました。
己の心の内を暴き、見るべきものを奪おうとする。
女は本能のように、男のことを危険だと思いました。
何も知りたくないとも思いました。
女のことをつらそうだと言う男の方こそが、よほど苦しそうな顔をしていたのでした。


その夜女は夢を見ました。
夢は女の、今までの記憶でした。
はじめは幼いころの冬。
どこかの窓から覗き込んだ家。
家族が寄り添い、温かいスープを分け合っているところ。
次に見たのは己の師。
浮浪児であった己に気配を殺す術や、閨のしつけさえも叩き込んだ男のこと。
糸を手繰るように、女は夢を見ながら、いつかの任務で己の師を殺めたことを思い出しました。
己の師に刃を突き立てたその時、女はすでに、己の王に忠誠を捧げておりました。
それゆえ女の記憶はあるときを境に、政において王の欲するところで埋め尽くされるようになりました。

密偵に必要なことは、決してその存在を知られないこと。
信じられる雇い主のほかに、己がそこにいることを悟られてはならない。
それは、女が「己」というものを持つことを許さないに等しいものでありました。
ゆえに女は、人並みな営みの中に加わることを避けておりました。

光の中を歩くこと、街中の曲芸や演劇を楽しむこと、心許せる誰かを得ること。

それを女は不幸だとは思いませんでした。
それが己なのだと、ただそう思っておりました。


最後に見た夢は、男と初めて出会ったときのことでした。
女は夢の中で、傷の痛みにうなされておりました。
それをあの日の男が、懸命に看病しておりました。
額に浮く汗をぬぐい、水を飲ませ、口に小さくちぎった食べ物を運んでくれていました。


目覚めた女は、窓から差し込む朝日に背を向けました。
心の中で男をなじりました。
どうしてあの時、己を助けたりなどしたのかと。
己の内側が黒く朽ちていくような心地に、女は小さく身体を丸めました。



つづく

(連載)傍観者の幸福2

夕方には戻るという男の言葉を聞かず、女は小屋を後にしました。
一日くらいはおとなしくしていろと言われたものの、見知らぬ他人に従う気にはなれなかったのです。
それに女は焦ってもおりました。
一刻も早く、王のもとに戻らなければならなかったからです。
途中で開いた傷口が痛みましたが、女は何とか王都に戻りました。
珍しい女の失敗に、王は少しばかり眉をひそめましたが、そのすぐ後には傷を案じてくれました。
恐縮する女に、王はしばしの休息を与えました。
女は傷が癒えるまで、身をひそめることにしました。

己のねぐらに戻った女は、それからすぐに熱を出しました。
傷が、女が思うよりも深いものであったからです。
女の孤独な身では、どれほど痛みにうなされようと、世話してくれるものなど誰もいません。
朦朧とする中で女はふいに、あの男を思い出しました。
王とは全く異なる、柔らかい日の光のような笑みを寄越した男のことを。
彼の手当てを受けたことを呪いました。
あのとき情けなどかけられなければ、己は今、こんなに苦しまなくてもすんだかもしれない、と。

熱が引いたのが三日後、傷がふさがり始めたのが五日後。

渇いた喉を水でうるおしながら、女は窓の外を眺めおろしました。
山を背に鳥が飛び、街を人が歩いています。
女はそこで生活を営む者について、いくつかの秘密を知っていました。

威勢よく果実を売る男は半年前、死産で妻と子供をなくしたこと。
仲睦まじい親子連れの、幼い少女の想い人が教会の司祭であること。
腕を組んで歩いているのは、少し前まで酷い喧嘩をしていた恋人たち。
職業柄、女は人の顔と、その人の身の上についての情報をよく覚えていました。
あの輪の中に、女が入ることはほとんどありません。


思えば己の日々はいつも、他の誰かを見てばかりいる。
この傷が癒えればまた、そのような日々が始まる。


その先の何かを考えないよう、女は窓辺から離れました。



女の傷が癒えたとき、王は新たな命令とともに、一人の男を女に与えました。
引き会わされたのは、あの日女を助けた男でした。
男は何も語らぬまま、女に向かって口角を上げて見せました。

この男は腕がたつ。
きっとお前の助けになるだろう。

己の手腕が信頼を失ったものと思った女は、過日の失敗を理由に王の許を辞す旨を告げました。
女が誤解したことを知った王は言い添えました。

そのような意味ではない。
私にはお前が必要だ。
此度のようなことで、お前を失うわけにはいかない、と。

王の言葉に、女はそれ以上抗うことができませんでした。
何某かの思いを飲み込む女を、剣を佩いた男がじっと見つめていました。



つづく

(連載)傍観者の幸福

むかしむかし、あるところに王室付きの密偵を生業としている女がいました。
今でいうスパイのようなものです。
女の仕事は、王室の脅威となるような策略やはかりごとを探りだすこと。
気配を殺して悪だくみをするものたちの言葉を聞き、王に報告すること。
危険極まりないその仕事を、女は誰よりも上手く行いました。
そのため女は密偵の中でも王の覚えめでたく、最も信用される忠臣のひとりと数えられておりました。

女が仕える王は若く、たくましい体躯をした美丈夫でありました。
7年前に即位し、先代の王が拡大した、広大な領土を治めるため、日夜政務に追われておりました。
戦争により奪われた地を取り返すことを、隣国はいつでも狙っています。
不穏な動きを牽制するために必要なのは情報であり、そのためには女の働きが大変重要となります。
女は命じられたあらゆることを見、聞き、帰還後王に語りました。
己の治世が長じるごとに、王は女を頼りにしました。
それは女の誇りでありました。
王の傍こそが、女の還るべき場所でありました。
任務をやりおおせた女にかけられる、言葉少なな王の労いだけが、女の心に密かな充実を与えました。


女は全くの孤独でした。
気が付いた時にはひとりだったからです。
人には父がいて母がいるものとはしりながらも、己にも親なるものがいるはずであるということを、女はあまり考えたことがありませんでした。
それゆえ寂しいと感じることもありませんでした。
女は本当に、孤独でありました。
己の身が寂しいものであることにさえ、気が付くこともないほどに。


王の治世が8年目に入り、女が王に仕えて4年が過ぎた頃、女は任務にしくじり傷を負いました。
国境の領土を治める領主が隣国から、密かに反乱のための資金を得ていたのです。
その証拠を探っていた女は敵に見つかり、脚と肩を射られたのでした。



己は決して見つかってはならない。
己の存在は、誰にも知られてはならない。



王の命令を守るため、女は必死に逃げました。
追っ手を振り切り、洞穴に身をひそめたところで、緊張の糸の切れた女は気を失いました。

気が付いた時には、見知らぬ清潔な小屋の、小さな寝台に寝かされていました。
傷には丁寧に手当てが施されています。


動かない方がいい、傷がまだ痛むはずだ。


声をかけてきたのは、扉から入ってきた男でした。
質素な服装をしており、女が逃げ込んだのは熊のねぐらだと言いました。
俺に見つかるとは運がいい、と、男は女に笑いました。
女は何も返さず、少しだけ顔を俯かせただけでした。



つづく

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