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不埒な夢。

女性向け小説ブログ。年齢制限作品込みにつきご注意願います。

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(SS)you take me alon...

振り向いた瞬間に視界を埋めた景色に、私は言葉を失った。
高くて途方もない青の真ん中に、長い長い道があった。
それは私が今までに歩んできた道そのものであった。
こんなにも遠くまで来たのかと、感慨に耽った。
眺める景色は決して平坦なものではなかった。
随分と険しいところを乗り越えてきたのだ、と思うと、自信がわいてきた。


もう少しだけ。
がんばってみようか。


自ずと前向きになりつつある己を認めながら、頭の片隅で思った。
どうして私はまた、後ろを振り返ってみようなどと思ったのか。
いつだって、興味があるのは過去じゃなくて現在と未来だったはずだ。
今が最善であるために、どんどん新しくなっていくこと。
それだけのために、ここまで歩いてきたはずなのに。

何かを忘れている気がした。
それはとても大きな、大切なものであったような気がした。
それと同時に、忘れなければいけない何かでもあったように思えた。
私は前を向き直った。
寂しさがうすら寒いすきま風になって、心にあいた穴を通り過ぎた。
後ろと同じ景色が広がっていた。
後ろと同じくらいに、長く長く道が続いていた。
まぶしい青は途方もなく高く、遠かった。
少し尻込みして、不安になって、なんとなくこぶしを作って。
そうして私はまた、足を前に踏み出した。


ひとりでいくよ。


誰にともなく、そう呟いて。




この世に「いのち」を降ろす時、神様はその新しい「いのち」に、しばらくの間道先の案内人をつけるらしい。
「らしい」というのは、それが、私自身も人づてに聞いた情報であるからだ。
曰く、かの人物は「私の」案内人なのだそうで。


しばらくの間はきみといるよ。
きみがいろんなことをわかって、大丈夫だってなるまでは。


案内人の仕事は、長い割に後ろが詰まっていて大変らしい。
私のあとにも、何人もの案内人を務めなければならないとか。
その頃の私は、まだやっと、自分でタッパーをあけておしゃぶりを取り出すことができるようになったばかり。
ちゅぱちゅぱっ、と口さみしさを紛らわせながら見上げると、かの人は他の大人と、おんなじように笑っていた。

かの人はとても面倒見がよかった。
デパートで迷子になったときにはすぐに母親を見つけてくれたし、海で溺れかかった時には岸まで私を引っ張ってくれた。
上級生たちにいじめられ、ひとりぼっちで帰る通学路では、ずっと手を握っていてくれた。
どの時にも私は少なからず泣いていて、でもかの人は決して、私の涙を拭わなかった。
ただ私の隣にいることで、私が自分で泣き止み、自分で涙を拭うことができるようにしてくれた。

物心がついてからしばらくの間も、かの人は私の傍にいた。
姿が見えない時でも、「いるんでしょ」と空間に向かって話しかければ、どこからともなく現れて、にいっ、と笑って見せるのだ。
初めての挑戦をするときや、知らない場所に行くときには、私は必ずかの人を呼んだ。
当時の私は、本当ならもう、案内人は不要となるはずの年齢だったらしい。
でもかの人は私に甘かった。
はじめは「一人でおいきよ」って言うくせに、「一緒にきてよ」と言われると断れないのだった。
おかげで私は、いつでも平気だった。
学校で友達ができなくても、仲間はずれにされても、共働きの両親が、遅くまで家に帰ってこなくても。

初めて男の子と付き合った、中学三年生。
急に恥ずかしさを覚えた私は、しばらくかの人を呼ばなかった。
そのままいなくなってしまうのかと思ったけれど、その子が他の女の子を好きになったというタイミングで、かの人はまた現れた。
泣きすぎて瞼を腫らしまくっていた私は、おかげでやっぱり、その涙を自分で拭った。
いつまでいてくれるのかとかの人に聞いた。
これから先、誰も私を好きになってくれない気がして。

ずっといるよ。

穏やかな声を置かれて、私は安心してその夜を眠った。
別の子と付き合うことになった時には、また恥ずかしくなったのだけれど。


二十歳で社会人になり。
二十五歳で男性と初めて関係を持ち。
二十九歳で転職し。
三十二歳で婚約破棄を経験し。
三十五歳で結婚して。
四十一歳で離婚した。


急ながらんどうが空恐ろしくなって、私は遠いところに旅に出た。
リュックを背負って、ひたすらに歩いた。
隣にかの人を引き連れて、しばらくはお互いに、黙っていた。
舗装のない道のりは、慢性的な運動不足の身体にこたえた。
じきに私の息は切れ始めた。
立ち止まり、両ひざに手をついて息を荒げる回数が増える。
疲労とやるせなさを溜め込む私の手を、いつからかかの人が握って、先導するようになっていた。
大きくて乾いていて、私のそれと同じくらいのぬくもりをしていた。
何となく、ごめんねと謝った。
かの人は、ううん、と返したきりだったが、いくらか歩んだあたりで、唐突に言った。

つらいね。

私は頷いた。
涙が頬を流れた。
子供のようにしゃくりあげながら、私は先に歩みを進めた。

でも、えらいね。

労いの言葉が、ぼろぼろになっていた心にしみた。
えらくなんかない。
私は、いつだってだめだ。
人並みのことが、人並みにできない。

そんなこと、ないよ。
きみはいつでも、ひとりでちゃんと頑張ってきたんだから。

私は否定したかったが、できなかった。
かの人の顔を見上げたまま、返答に詰まってしまった。
私はひとりなんかじゃなかった。
いつだって、目の前の存在が傍にいてくれたから。
でも同時に、ひとりだったのかもしれないとも思った。
かの人のことが見えているのは、私だけ。
私以外の誰も、かの人の存在を認識している人物はいなかった。


きみはもう、とっくに大丈夫なんだよ。


軽く俯いたまま、こちらを見ないままだったかの人が、ここでやっと私を見た。
私を見て、笑った。


ほら、うしろ。


背後に視線をやる、かの人に私はつられた。
振り向いた瞬間に視界を埋めた景色に、私は言葉を失った。
高くて途方もない青の真ん中に、長い長い道があった。


(SS)白昼夢。

左の頬骨がやけに痛いので目が覚めた。
瞼を開いて一番に目に入ったのは、グラスの結露を吸って柔らかくなったコースター。
印刷されている、陽気そうな笑みを浮かべたウサギのキャラクターが話しかけてくる。
なんだって、「やい、起きろ」だと。


んなアホな。


現実と非現実の絶妙な混ざり具合に、かえって意識がはっきりした。
身体を起こしてようやく、最近お気に入りのバーで居眠りをしてしまっていたことに気づいた。
そうだ、暖かい季節になったし、ちょっとばかり夜桜を肴にひっかけようと思ったんだった。
頼んだのはカルアミルク。
二杯くらいしか飲んでないはずなんだけど、なんでこんなに眠くなってしまったんだろう。

目をこすって小さくあくびをかみ殺せば、お目覚めかい、なんて、バーテンさんにからかわれ。
すみませんでした、と頭を下げて財布を出すと、風が出てきたから気を付けて、だって。
とりあえずの営業スマイルを返したところで、ふと気づいた。


銀髪だぁ?


「……なんだ、どうした?」

自分を凝視する私に、不思議そうに声をかけてくるバーテンのお兄さん。
口調が馴れ馴れしいのは問題じゃない。
ここのバーテン、もとい店長は、私とはいつもこんな感じだから。
というか、いつもこんな感じ、という「設定」だったから。

目の前にいるのは、長身に浅黒い肌、白に近いような白銀の髪の毛の男性。
薄暗い店内だからはっきりしないけど、多分瞳の色はすごく薄いブルー。
いつかに私が書いた、小説の主人公。


ははぁ、こりゃ夢だな。
なるほど、これが明晰夢ってやつか。


初めての経験はとても興味深く、私は自分の手やら持ち物やら、店内やらを見回した。
そうだそうだ、こんな設定にしといたんだっけ。
で、時間軸的にはいつ頃なのかしら。
あの話でいうと、どの辺まで進んだところなんだろう。
わくわくしながら色々と考えるものの、どうにも頭が重くて痛い。
明晰夢のくせに頭痛とはこれいかに。
私の見ている夢なんだから、思うとおりになったっていいものを。

「大丈夫か? 顔色悪いぞ」

「あ……ありがとう」

ワイングラスいっぱいの水を差出しながら、店長が気遣ってくれる。
なんだか申し訳ない気がして、私は店を出ることにした。
本当はもう少しいたいんだけど、どうにも頭の痛みがおさまらなくて、それどころじゃない。
ストールをひっかけてふらふらと出入り口に向かうと、店長が見送りについて来てくれた。
もう一度お礼を告げて扉を出ると、入れ違いに男女4人が話しながら店に入っていった。
店長とそのうちの一人が親しげに挨拶を交わすのが聞こえる。
なんとなく振り返って目に入る、連中の容姿。
赤毛の男性とカスタードクリーム色の髪の女性がいたことで、これが夢なのだという確信が強まった。
終電を気にしながら、そんな自分に「いや、意味ないから」と突っ込みを入れる。
地下鉄への階段を降りつつ、明晰夢の中でも帰るのには乗り物がいるのかなどと考えつつ、私はもう一度あくびをかみ殺した。



翌朝の目覚めは最悪だった。
寝過ごしたのだ。
慌てて支度をして、何とかいつもと同じ時間の電車に間に合った。
ひしめく車内で揺られながら、見るとはなしに吊り広告を眺める。
どの週刊誌の見出しも無意味なほどに扇情的で、日本語の意味がわからなくなる。
「みなさんこんなことが許せますか!?」と言わんばかりのそれは、最早ありふれすぎていて退屈に思えるくらいだ。

時間つぶしにすべての見出しを読み、それでも下車まで時間があったので、別の吊り広告に目をやる。
今度のそれは、ウサギの横顔をかたどったマークが有名な出版社の、今月発売となる文庫本一覧の広告だった。
各々の作家さんの名前と本のタイトルと見出しが縦に並び、一番下にはウサギのマーク。
キャッチフレーズの「こっちにおいで」が、ウサギのセリフのようにふき出しの中に書かれている。


ウサギっていえば、あの男性誌もだったっけ。


「アッチ」が強いのが理由とのことで採用されたんだっけ、なんて、朝から下品なことを考えつつ、私は新刊一覧を確認する。
その中のある著者名に、私は奇妙な気分になった。
まさか実在するとは思わなかったのだ。
私がかつて書いた話に登場する人物と、同じ名前のエッセイストなんて。
昨日の夜には中途半端な明晰夢を見ていたこともあり、なんだか気持ちが悪くなった。
私は今日から今までとは違う部署に配属になる。
大変なのはこれからだというのに、今からもう頭が痛くなってしまいそうだ。

カバンに頭痛薬はあったろうか。
なければ近くの薬局にでも寄っておこう。
あと、煙草もいつもより多めに買っておくか。

その後の通勤の間は、そんなことばかり考えていた。
出社後、社内で紹介された女性の先輩社員の名前を見て、思わず白目を剥くとも知らずに。


結論から言うと、彼女もまた、私が過去に書いた小説の登場人物だったのだ。
たしかこの人には絵描きの恋人がいたはず。
この設定からすると、まだ再会するには至ってないか。

大変だろうけどね、もうちょっとだから頑張ってね。

親切に業務内容を教えてくれる彼女の言葉をメモに取りつつ、私は全く無関係な感想を抱いた。
そしてまた気づいた。
これもまた、明晰夢の中なのだと。
なんと、目覚めてもまだ眠ってるってか。
んじゃ夢の中で眠ったら、現実では目が覚めるとかってことにはならないのかしら。

「大丈夫ですか、なにか、わからないところはないですか?」

一通りの説明が終わった彼女が聞いてくれる。
大丈夫だという旨と礼を告げ、私は早速仕事に取りかかった。
「夢の中で寝る」を試せるとしたら昼休憩だ。
早く時間が過ぎるようにするには、一生懸命働くのが一番いい。


明晰なのは私の意識だけで、何一つ自分の思い通りにならない夢。
こんな半端で、器用なんだか不器用なんだかわからない芸当ができるのは私くらいのものだろう。
なんて微妙なんだ。


つらつらと不満をこねまわしながら仕事をしていたら、どうも随分難しい顔をしていたらしく。
眉間に皺が寄っちゃってますよ、と、かの先輩に笑われてしまった。
お昼休憩には一緒に食べないかと誘われたが、朝からちょっと頭痛がすると言い訳して断った。
適当にコッペパン(あんこマーガリン)をかじって机に突っ伏す。
さあ、こんどこそお目覚めだ。



なんとも気持ち悪い、「二段構えの微妙な明晰夢」を見た週末。
私は買い物をしに、某大型百貨店を訪れていた。
銀座にあるこのデパートは大好きなのだが、何しろ何を見ても商品が高いのなんの。
なかなか手が出せるものがないので、目の保養にとどめて一通りのハイブランドを楽しむ。
こういうところの店員さんは教育が行き届いているもので、買いそうにない私のような客でも丁寧に対応してくれる。
丁寧に対応してくれるので……買っちゃったものもあったりして。

どうにも手に入れたくなってしまったのは、あるイタリアの老舗香水ブランドの逸品だった。
私は花の匂いの香水が好きなのだが、試しに嗅がせてもらったそれが、ものすごく良い香りだったのだ。
ドラッグストアで売っているものの半分の量しかないのに、金額はゼロが一つ多い。
うわぁ、と思ったものの、どうにも諦めがつかず。
思い切って購入した私に、店員さんはおまけとしていくつかの別の香水のサンプルをくれた。
最後まで気持ちよく対応してくれたことに感謝し、七階にある喫煙ルームを目指した。
このデパートの気に入っているところは、実はこの喫煙場所の景色もだったりするのだ。

室内には誰もいなかったので、私は品物の袋やら羽織っていたコートやらを脱ぎ散らかした。
適当にそれらをまとめて、ポケットからジッポライターを取り出す。
真鍮にアラベスク模様の刻まれたそれは、長年使っているお気に入りだ。
ミリ数を5ミリから3ミリに下げたものの、消費税率が変わる直前というのはタイミング的によろしくなかった。
結局、一日に吸う本数が増えてしまって、今まで以上に財布を圧迫しているのだから。

紫煙をくゆらせつつ、また5ミリに戻そうか、などと思っているところで、ピンヒールの音を響かせて一人の女性が室内に入ってきた。
ゆるくパーマのかかったロングヘアは蜂蜜みたいな金色。
それをばさばさなびかせて、ついでに高そうなスプリングコートの裾までひらめかせて。
ハイヒールなどはかずとも、十分すぎるほどに長身だもんだから、その迫力たるやすさまじかった。
彼女はつかつかと窓辺までやってきたかと思えば、不機嫌そうに、これまた高そうなライターを取り出し、火打石を親指で擦る。
私はしばしの間、思わずその人をじっと見つめてしまった。
ひかれたルージュも麗しい唇に咥えられた、細長い煙草の角度が美しくて。

「……あの」

「! あ、すみません……」

唐突に顔を上げて話しかけられ、反射的に謝ってしまった。
それくらい、私はその人のことを凝視してしまっていたのだ。
私の恐縮する様に彼女、もとい「彼」は、一瞬きょとんとした顔をした。

「え?」

「あ、や……す、すみません」

「いや、あのね、ちょっと、お願いが」

脳内設定どおりの美声に、スーパーモデルもかくやという豪奢さに眩暈を覚えながら、私は状況を確認した。
彼の手にはライター、唇には火のついていない煙草。
慌てて自分のジッポーを差し出すと、彼は小気味よい音を立てて火をつけ、ありがと、とそれを返してくれる。
弧になった両目の奥にはNI○EAの青缶によく似た色の瞳。
こちらにジッポを渡してくる、そのすらっと長い指にマニキュアはない。
なんとなく笑みをこぼして、それから、あぁ、と辟易した。


私はまだ、夢の中にいる。
目の前にいる、女装の似合う彼もまた、私が書いたキャラクターのひとり。


「ちょっと、大丈夫?」

「あ、はい……」

途端に、眺めていた階下の絶景が恐ろしいものに変わる。
思わずしゃがみこんだところ、隣にいる彼が心配して声をかけてくれた。
一度立ち上がり、灰皿近くにあるベンチに座ったところ、彼も距離を置いて、私と同じ側に並んでいるベンチに腰掛けてきた。
何となく気にかけているのを悟られないように、だろう。
彼は手持ちのハンドバッグを探りだした。
スマートフォンを取り出したとき、一緒に何かが落っこちて、カタン、と音を立てた。
私の足元まで勢いで滑ってきたので拾い上げる。
それはジッポとはまた別のオイル式ライターだった。
ボディには装飾的に刻まれた「Shake it!(早く!)」という文字と、擬人化されて走っているウサギのデザイン。

「あら、ごめんなさいね」

「いえ、素敵なライターですね」

「ありがとう。これもらいものなのよ」

「いい趣味のお友達がいらっしゃるんですね」

何とも意味深で可愛らしいそれを返すと、彼は何とも言えない笑みを浮かべて、落としたライターを受け取った。
わたしはしみじみと彼を見た。
世間話をしてしまったのも彼の手の内なのだとしたら、自分の妄想も随分なものだ、と。

私は彼には特別の思い入れがあった。
あの頃、すべてを彼に込めていたから。
理想とか、希望とか、自分の好む男性の姿とか。
そして毎度のことながら考える。
今はあの話の中の、一体いつくらいなのだろう。
プレゼントを贈るくだりなんて書いていなかったはずだけれど。
まあいい。
うまく絆を保ってくれているなら、それで。


煙草を一本吸い終わった頃、彼はスマートフォンで誰かと話をしていた。
どうも、今日一緒に外出した相手のようだ。
下の階の本屋で有名な作家のサイン会があったとかで、丁度今終わったらしい。
彼がイラついていたのは、サイン会が盛況で長いこと待たされていたことと、多少の嫉妬が原因のようだ。
私が三本目を吸い終わる頃に、彼の連れがやって来た。
ごめん、待った?から始まる彼らの会話に出てきた作家名に、私は今度こそ天を仰いだ。
その人物の名前もまた、心当たりのあるものだったから。


夢の中とはいえ、そこまでしなくちゃいけないものか。
でもそうでもしないと、私はいつまでも戻れない。


二人連れに軽く会釈をし、荷物をまとめて喫煙室を出た。
目指すのは屋上。
17階建てのビルのてっぺん。

インセ○ションぱねぇ。
まじパネェ。

エレベーター内でぶつぶつ呟く私は、さぞかし「春に多くなるああいう人」に見えたことだろう。
辿り着いたそこは展望台になっていた。
乗り越え禁止の柵は何のためにあるのかわからないくらいに低かった。
せっかくなので、先ほど買った香水をつけた。
これしきの事で気休めになるとは思わないけれど、どうせなら、少しでも好きなものに包まれていたい。
いらないものをみんな足元に置いて、ギリギリのところに立った。
勝手に震える脚に、一瞬だけ力を入れる。
ゆっくりは怖いから、思いっきりいった。
目は閉じるつもりができなかった。
そっちの方が、見えているよりも怖い気がしたから。
お腹の中に、ジェットコースターに乗っているときみたいな浮遊感が満ちる。
バカみたいな速度で迫ってくる地面。
ぶつかる、と思った瞬間に、やっと瞼が下がってきた。




眠っているときに、突然身体が「ビクっと」するあれには、「ジャーキング」という名前があるそうだ。
私を襲ったものも、きっとそれだと思う。
身体の「落ちる!!」という感覚と、それに伴った「不随意の筋肉の痙攣」―つまりビクッと、だ―に、私は思わず身体をのけ反らせ、辺りを見回した。
私の周囲の席に座っている人たちが、誰も彼も不審な顔をしていた。
何でこんなに一杯人がいるんだ、と思ったそばから「当たり前じゃん」と答えが浮かぶ。

ここは劇場。
今日は、ずっと憧れていた、あるパフォーマーのリバイバル公演。

迷って悩んでチケットに応募して、当選して。
ものすごく早い時間に来てしまったのだけど、すぐに席に座ってもいいと通してもらえて。
番号と場所を確認してみれば、なんとそこは一番前のど真ん中の席。
こんなところから見れちゃうのか、と、興奮するやらハラハラするやら。
買ったパンフレットやグッズやらを眺めて楽しんでいたのが、いつの間にか居眠りしていたらしい。


憧れの劇場で居眠り。
しかも見たのが似非明晰夢でインセ○ションのバッタもん。
あたしゃ一体どんな神経してるんだ。
……あ、逆?
人間って、緊張が過ぎると眠くなることもあるんだっけ。


諸々考えては一人で赤面しつつ、手荷物をカバンに仕舞おうと、足元に落としてしまっていたパンフレットを拾った。
表紙には燕尾服を着て走るウサギの絵。
この絵が今回のキーワードらしい。
何度見ても、実にぴったりだと思う。
彼の演目はいつも、どこかしら謎めいた雰囲気を持っているから。

じきにゆっくりとライトが落ち、開演を告げるブザーが鳴った。
私は慌ててパンフレットを仕舞う。
正面の舞台を見上げた瞬間に、かの人の声が響いた。
何度も何度も映像で繰り返し見て、聞いた、あの声が。



―人には誰にでも、その人にふさわしい舞台というものがあります



感動に思わず涙がにじんでしまう。
ああもう、ハンカチはカバンの中なのに。
感慨をぐっとこらえて、私は舞台に見入った。
ライトはまだ点かず、かの人の姿は見えない。



―各々に用意されたそれは、必ずしも、本人の希望通りとは限らない

―特別な場所に行きたくても、そうなれない人

―あるいは、多くの人と同じ舞台がいいと思うのに、特別な何かを与えられた人



劇場に響く声に胸を震わせながらも、しかし私は不安になった。
これは私の知る、どの彼の舞台とも違っていたからだ。
今日の公演は、過去に好評を博したツアーのリバイバルだったはずだ。
こんな舞台を私は知らない。
一体どういうことなのだろう。

朗々と紡がれる言葉に耳を傾けつつ、私は舞台の変化を見守る。
けれど、未だ彼は現れない。
美しい声で、意味深な台詞は続く。



―あなたは一体、どんな舞台を望むでしょう

―また、どんな舞台に選ばれているのでしょう

―いずれにしろ、一つだけ言えることは



「あなた自身が足を踏み出さなければ、どんな舞台にも上がることはできないということ」

スポットライトのど真ん中、集まった観客たちの前に、ようやく彼は姿を見せた。
胸にわだかまっていた疑問が、一瞬消え去った。
左右の隣にいる人同様、胸にどっと、熱いものがこみ上げる。
本物が目の前にいる、という、もうその一言だけに尽きる想いで染まっていく。
それ以外のことが、大したことでなくなっていく。


はずだったのに。


ある意味では度肝を抜かれた。
だが違う意味で拍子抜けした。
しかしながら別の意味ではとても興奮した。
そして、それらが過ぎ去ってから戦慄を覚えた。

舞台の上の彼の顔は、私の知るそれではなかったからだ。
むしろ人間でさえなかった。
真っ白い毛むくじゃら。
触覚もかくやという角度で、顔よりも長く上に伸びた耳。
つぶらな瞳に、もこっと丸い鼻筋。

彼はウサギだった。
頭から上が、ウサギそのまんまだった。
すらりとした長身に燕尾服を纏い、金色の懐中時計の鎖をポケットから垂らしておきながら。
かぶりものでは断じてない。
あの口元のニンジンでもモグモグやりそうな動きは、絶対に人工物で再現できる代物じゃない。


「もしもあなたに上がりたい舞台があるのなら、やるべきことはひとつ」


しかもそのウサギ、舞台上で喋りながらこちらを覗き込んでくるのだ。
いや、こちらというのは正しくない。
舞台から「私の席」に向かって、身を乗り出してくるというか。
真正面に迫ったウサギの顔に、私は思わずのけ反る。
とはいえ後ろは背もたれだ。
下がるにしても限りがある。
どうしたらいいかもわからず、私はつぶれた虫のように椅子に貼りつく。
これも演出のうちなのだろうか。
だとしたら、こんなのとんでもなく「彼」らしくない。



―跳んで



「え?」

まるで囁きのようなそれは、最早台詞ではなかった。
思わず聞き返した瞬間に、椅子ごと私の席の床が抜けた。



―どうしていつまでもそんなところにいるの?

―どこが自分にとってふさわしい場所か、わかっているんじゃないの?



もがきながらどんどん落ちていく私に、あの声―最早彼なのかウサギなのかわからない―が語る。
周囲は何もない、本当に何もない真っ暗闇。
あまりにも真っ暗すぎて、もみくちゃになって、わからなくなっていく。
私は本当に落ちているのか、あるいは、どんどん上に向かっているのか。
そしてどこかでは思う。
どうせこれも夢なのだと。
夢であるからには、これもまた、私自身が作り出したものに過ぎないのだと。
跳べるなら跳びたいに決まってる。
行けるなら行きたいよ。
でも、それができないから苦しいんじゃないか。



―そんなところで時間潰してると、遅れちゃうよ

わかってるよ、ばか!



思わず叫んだ瞬間に、私は夢から醒めた。



小さな部屋は、相変わらずモノでひしめいていた。
仮眠のために用意した毛布が丸まっているのは、最近めっきり暖かくなって使わなくなったから。
飲みかけのコーヒーはとっくに冷たくなっている。
かじりかけのチョコレートが、なぜか空になった煙草の箱の中に収まっていた。
なんとなくそれを取り出し、口に含みながら煙草の箱を捨てる。
ごみ箱がいっぱいだったので、力を込めて袋の中に空き箱を押し込んだ。
日付は変わって、午前3時51分。
ああ、今日は燃えるごみの日だ。
忘れないうちにまとめておかないと。
ペットボトルも大分あるから、次の回収日に出そう。

書きかけのテキストファイルを確認する。
どうも、この途中で眠ってしまったらしい。
文章が途中からアルファベットの羅列になり、その後にはずーっと、アルファベットの「p」が続いていた。
不要な部分を消して、ファイルを上書き保存する。
飲み残しのコーヒーを呷る。
みじめな気持が膨らんだ。
夢の中にいたときには、あんなに戻りたかったのに。



―跳んで



夢の記憶は、はっきりと目が覚めるごとに薄れていく。
耳にこびりついたあの囁きが消えてしまうのが、なぜか、とても惜しく思えた。
私は新しいテキストファイルを開き、夢のあらましを大急ぎで書き留めた。
荒唐無稽もいいところだとは思うが、こんな話が一つくらいあったっていいだろう。
これが、今の私の現実なのだから。

覚えている範囲をおおかた文字にしたところで、画面視線を定めたまま周囲を手さぐり、煙草を探した。
それらしいものに触れたので掴むと、一緒に何か別のものもくっついてきた。
どうやらトランプか何からしい。
箱から一本取り出し、火をつけてから確かめる。
こんなトランプ、持っていただろうか。
絵柄はジョーカー。
おとぎ話に出てきそうなテイストで描かれたウサギが、あの特有の胡散臭さを纏ってこちらを見ている。

「……跳べると思うかい」

誰もが寝静まった時間帯の独り言は、どんなに小さくしたつもりでも妙に部屋に響く。
煙草を吸いながらそんなことを言ったせいで、煙が目に入った。
にじむ涙を拭うのに、人差し指と中指に挟んだカードを机に置く。
印刷部分にあたる光の反射の加減のせいだろう。
ウサギが私に、ウインクしたのが見えた。


(SS)したごころ


みーちゃんはお隣さんとこの息子で、あたしと同じ学校に通っている。
同じ高校で、学年が二つ上。
引っ越してきたのは四年前。
仲はいいと思うけど、おさななじみ、と言えるほどには、あたしはみーちゃんの子供時代を知らない。

みーちゃんは何かというと、すぐにあたしにさわる。
地下鉄を降りるとき。
マグカップを受け取る時。
二人で街を歩くとき。
当たり前みたいに手を握ったり、ちょこっと指先に触れたり、腕を組めと自分のそれを差し出してきたりしてくる。
初めて一緒に遊んだ時からそうだった。
だから今まで、あんまり気にしたことなかった。
そういうもんか、とか、そういう人なんだな、とか、それくらいで。
でも聞いちゃった。
みーちゃん、本当は女の子に触られるのが嫌いだって。
みーちゃんに言い寄ろうとする子がそういうことすると、眉間に皺よせてすっごく嫌がるんだって。
そんでもって、みーちゃんのクラスの先輩に聞かれちゃった。
付き合ってるの、って。


そんな事があっちゃっちゃ、あたしゃ考えずにゃあおられぬ。
考えぬわけにゃゆかぬ。
けれども「らしい」答えなどきちんと出ぬ。
だもんでこちとら悶々としておる。
ありゃ何だ、と。
あいつはどういうつもりかと。
んでもって、あたしら一体なんなんだ、と。


今、あたしはあいつと二人っきり。
ナシつけてやろうじゃん、って乗りこんだ先で誘われたのだ。
暖かくなって、珍しい野鳥が見られるようになったから一緒に行こうよ、って。
かわいいかわいい小鳥さんがいるとなれば、そんなもん断る理由があるはずもなく。
のこのこついて来ちゃったはいいけれど、頭の中を情報源がぐるんぐるん。
ここは膝丈以上にも伸びたヤブの中、鳥が来るのをこっそり見てる。
肩や吐息が触れるほどにくっついて、みーちゃんはあたしと一緒にしゃがんでる。
ここに辿り着くまでにも、何度もみーちゃんにさわられた。
バスのタラップを降りるときには手を引かれた。
被った帽子が、枝にひっかかって曲がったときには、直すふりして耳を撫でやがった。
流れる小川を渡るのに、古くなった橋の上を歩いた時なんか、バランス崩しちゃ危ないってんで腰を支えられた。
みーちゃんは平気な顔して、せっせとあたしの世話を焼く。
今日のお弁当、あれだってみーちゃんが作ったのだ。
さっちゃん、おかかのおにぎり好きじゃんね、って。
おかかの中にゴマが入ってるのがいいんだよね、って。
ウインナなんか、タコさんどころかクジラさんだった。
(あたしは海の生きものも好き)

てめぇ、なんでそんなことまで知ってる。
おまえ、一体ナニ考えてる。

野鳥どころの話じゃないあたしは、ここぞとばかりにみーちゃんの顔をガン見する。
男くさい造形はしてない。
かと言って、少女漫画や乙女ゲーのキャラみたいってわけでもない。
カッコいいかよくないかって聞かれると、普通だ。
と言うより、そういう基準でみーちゃんのことを見たことがない。
だからよくわからないんだけど、あの先輩さんは、なかなかよかった。
付き合ってるの、って、あたしに聞いたあの先輩。
そこそこかわいくて、大人っぽい雰囲気もあって。
ははぁ、ああいうのに好かれるタイプなんだな、と、逆に学習したくらいだ。

あたしが観察する間も、みーちゃんはずっと上目づかい。
たまに木漏れ日に顔をしかめて、鳥の姿を追いかけてる。

「……さっちゃん、あそこ」

「……えっ」

「ほら、あの枝んとこ。あれ珍しいやつだよ」

視線を上に向けたまま、内緒話の音でみーちゃんが言う。
あたしはどこだか全然わからず、あさっての方向をきょろきょろしてる。
じきにひらめいて、みーちゃんの顔から、目線の先を追っかけてみる。
でも、そこには沢山重なり合った葉っぱと、間からさす光があるだけ。
目を凝らしてみても、それらしいものは全然見つからない。

「見えないよ、どこ?」

「しーっ、静かに。逃げちゃう」

「だってわかんないんだもん」

「ほら、あそこだってば。今なんかついばんでる」

「……ええぇ、どれぇ?」

「……しーーーーっ」

一瞬イラッと顔をしかめて、みーちゃんは自分の右手の人差し指を、あたしの唇に当ててきた。

おい光輝(みつき)、てめぇ。
もとい、この人差し指。
あんたなんつーことをしてくれる。
おなごの唇に簡単に触れていいと思っとるんか、こらぁ。

野鳥を驚かしちゃならぬ、ってんで大人しくしていたけど、内心憤慨しまくりだった。
張っ倒してやろうかと思ったね。
レディになんてことしやがる、ばか、って。

……うそ。
それは本当ではございません。
いや本当じゃないわけでもないんだ。
本当じゃないというか、本心じゃない、っていうか?
いやさ、そうも思ったんだけど、何でそんなん思ったかって言ったら、怒ったからじゃないっていうか、まあ怒るにも理由があった、みたいなね。
だってドキドキもするよ。
みーちゃんの手、すっごく恰好いいんだもん。
おにぎりもクジラさんウインナもたまごやきも白和えも、全部上手に作っちゃうみーちゃんの手。
あたしよりずっとマニキュアが映えそうな指してて、ちょっとささくれがあって掌が大きいんだ。
そんなのにそんなとこ、触られちゃったと思ってみてよ。
声なんか出ないよ。
身動きとれないよ。

だからあたしは、実際には息を止めて見てた。
みーちゃんの人差し指。
自分の唇に、軽く触ったまんまになってるみーちゃんのそれ。
ぎゃんぎゃん喚くことができたのは心の中だけだ。
そのうちだんだん、自分の唇が気になりだした。
リップクリームのほとんど乾いちゃってるそこは、多分少しだけかさついてるはずで。

「……どこ見てんのさっちゃん」

「……う」

「ほら、上だってば、あそこ」

硬直したあたしに気づいて、みーちゃんが苦笑する。
人差し指を唇から外して、そのまま木の枝を差す。
あたしは目線でその動きについていく。
指の先っぽのあたりを一生懸命見るんだけど、それでもやっぱり鳥っぽいものは見えない。
お日さまのせいでわかんないのかと思って、何度も目を凝らしてみる。
鳴き声は聞こえてんだ。
でもどこにいんのかわっかんないんだよね。

隣のみーちゃんがあたしの変顔を笑い、その息が耳と頬にかかる。
見かねてあたしの肩を引き寄せ、自分にもっと近づかせる。
あたしはうんと目を見開いて、ぐっとまばたきして、両目をこすってもう一度、じっと小鳥さんを探す。



…………いた!!!



思わずみーちゃんを振り向くと、目だけで「でしょ!?」って。
あたしはうんうん頷いて、もっかい、小鳥さんの方を向く。
ちっちゃくてずんぐりむっくりでかわいい鳥さんは、しばらくそこで「ちゅんちゅん」やってた。
何かついばんで、鳴いて、きょろきょろして。
こっちが見飽きた頃になって、バサッと飛んで、いなくなった。
詰めていた息を吐き出したら、タイミングと長さがみーちゃんと一緒だった。
はっと気づいてヒッとおののき、ヘッと笑われる。
見るのに必死で気づかなかったけど、みーちゃんとあたし、めっちゃ近いとこにいたの。
みーちゃんの方をみると、視界がみーちゃんの顔で埋まっちゃうくらい。
で、その距離のまんまみーちゃんと目が合っちゃったんだ。
ちょっと待てどうしたもんだこりゃ、ってな心情はあからさま。
で、みーちゃんが顔を逸らして吹き出した、ってわけ。
あたしは急に恥ずかしくなって、顔を手でぱたぱたあおいだ。
へろへろになって、でも何とか落ち着こうとしているのに、みーちゃんはあたし見てまだくすくす笑ってる。

「……困らせるつもりじゃなかったんだけどなぁ」

「……」

「さっちゃんさぁ、もうさぁ、もう……」

言いながら、笑いながら、みーちゃんの表情に笑みとは違うものが混じっていった。
あたしはおもちゃにされた気分で、けど、なんかみーちゃんの方が困ってるように見えて。
ばくばくうるさい心臓の面倒もうまく見きれないまま、焦れる。
振り回されてんのはこっちなのに、人のことかき回しといてなんでそういう顔するかな。
そりゃ察するでしょ。
みーちゃんの言わんとしてることなんか。

あたしはうんと立ち上がって、お尻についた土や葉っぱを払った。
一拍遅れてみーちゃんも立ち上がる。
同じようにお尻を払っているから、それが終わるのを見計らって声をかけた。

「ねぇみーちゃん」

「うん? ……!」

通常状態に戻りつつあったテンションがまたこんがらがるみーちゃん。
そうだよねぇ、自分より背の低い女の子に、胸倉掴まれるなんて思わないじゃんねぇ。

あたしは恥ずかしいのを目いっぱい我慢して、みーちゃんの顔を自分に近づけた。
みーちゃんはいつもよりも目を見開いて、何事か、ってな顔。
見つめ合うのはアレだったので、視点をみーちゃんの唇に定めた。
少しあいたそこから、つるんと並んだ歯が見えた。

「あたし、男らしくない人キライ」

あるんでしょうよ、あんた。
「したごころ」ってやつがさ。
あたしにとって嬉しい類のもんだかどうだか、わかったもんじゃぁないけれど。

それ以上の言葉を言わないあたし。
みーちゃんの唇がさっちゃん、と動く。
不思議なほど抑揚がなくて、あたしは目線を上げて確かめる。
みーちゃんのふたつの目。
黒い瞳の中いっぱいに、据わった顔したあたしが映ってる。
早くやりやがれこのやろう。
あたしゃせっかちなんだ。
思わせぶりなことして女心はかったりするような、臆病でとろっくさい男なんざ置いてっちまうよ。

なんぼほど啖呵のひとつでも切ってやろうかって頃になって、ようやく、みーちゃんの左腕があたしの腰を引き寄せた。
右手が毛先をかきわけて、耳と顎をくるむ。
あたしは掴んだみーちゃんの胸倉を、そのまま自分に向かって引っ張った。
みーちゃんは逆らわない。
じきに、みーちゃんの目の中のあたしが見えなくなった。
かわりに、みーちゃんの心臓の音が身体に響いてきた。
すげえのな、人の身体って、服越しでもぬくいのね。


足元のあたしとみーちゃんの影は、もう二人分のそれには足りないような形になっている。
頭の上で鳥がないた。
ふにゃふにゃの感触に脳みそが吹っ飛びそうになっている、あたしのことをからかって。


(SS)恋にならないで

卒業式の予行演習が終わったのに、本田が掃除場所にいなかった。
いつもなら廊下のモップ掛けしながら、たまにモップにまたがって「やっぱとべねぇかなぁ」とかやってるのに。
もしかして、と食堂に行ったら、あいつは山盛りのカツカレーを頬張ってた。
片足膝に乗っけて、ものすごく行儀がわるいのに、調理場のおばちゃんたら「けいちゃん、ほんっとに美味しそうに食べるねぇ」だって。
そりゃそうだよおばちゃん。
カツ、揚げたてじゃん。
大鍋、ストーブにのっけて、午前中からくつくつ煮込んでたんでしょ、カレー。
誰が食べたって、こんなの美味しいにきまってるよ。
それにあいつも心得たものなのだ。
合間に「おばちゃぁん、うまーい」なんてにこにこして見せたりしてさ。

明け方の寒さで寝坊して、朝ご飯食べそびれてたわたしには、ムカつくほどに目の毒だった。
そこをぐっと我慢して、足早に近づく。
こっちが話しかける前に、本田はわたしに気が付いた。

「おう」

「…じゃねぇよ、あんた掃除サボって何してんのよ」

「いや、腹減ってさ」

「あたしだって減ってるわよ。
てか、みんなこの時間お腹減るわよ」

「あー、今朝めっちゃ寒かっただろ?
俺寝坊してさー、朝飯食ってないんだ」

「だからってサボっていいことにはならんだろうが」

「……12時8分。リハのあとは掃除して、ホームルームなし。
掃除終わりは12時5分。はいー今もうガッコ終わってるー」

腕にはめたFossilの時計の針をスプーンで指し、本田はまたカレーをかっこみだした。
カツの衣が口の中でさっくりと鳴っている。
唇の左端には衣のかけら。

「……なに? おまえも食う?」

「いらん!」

「あ、食いかけはイヤか。
おばちゃーん、カツカレーもういっこ頼んでいーいー?」

「いいよ、ご飯普通盛りでいいの?」

「あー、大盛りで! こいつ超腹減ってるって…」

「普通盛りで! てかあんた、勝手になにしてくれんのよ!
あたしいま財布ないわよ」

「いいよ、俺のオゴりで。後で返せよ」

「それ奢ってないし。……って、だからそういう問題じゃなくて!」

「いーじゃんいーじゃん、もう掃除時間過ぎちゃったんだし。食おうぜ、な?」

あまりのお話にならなさ加減に、わたしは大げさにため息をついた。

おばちゃん自慢のカツカレーはほどなくしてできあがった。
下手すると鼻息まで白く濁りそうなほどに今日は寒い。
体育館で行われた予行演習は、灯油が切れていたとかでストーブもたかれることがないままに終わった。
程よい辛さのカレーと、からっと揚がったカツは想像以上に美味しく、冷えた身体にしみわたった。
スプーンを口に運ぶうちに、なんか色々、もうどうでもよくなった。

「……早いねぇ」

「何が」

「卒業、来年はうちらじゃん」

「ああ」

「あんた、進路とかどうすんの? あのあと結局どうしたの?」

進路希望提出期限日の放課後。
本田は担任の先生と、進路指導の先生の両方から呼び出しを食らっていた。
進路のことで話がある、って言ってたから、きっと、書いた希望に問題があったんだろう。
後頭部をぽりぽり掻きつつついてく本田を挟んで、右に担任、左に進路指導。
まるで連行そのものだった。

「んー……」

わたしが返答を待つ間に、本田はカレーの最後の一口を食べ終わる。
おもむろに水を飲み、頬杖をつく。

「考え直せってさ。だから、一応もっかい書いた」

「なんて?」

「あの美大、おまえに言ったあの大学」

「はぁ!?」

「いや、今更驚くところじゃねぇじゃんそこ」

まさか本気だったとは。

「だって、あんた、ここどこだと思ってんの?」

「県立松ノ上高等学校」

「じゃなくて。進学校に通っといて美大行くとかないでしょ、っつってんの。
先生にもそう言われなかった?」

「うん、折れた、ってさ」

本田はなんとも、場違いなほど神妙と言うか、大真面目な顔をしている。
わたしの呆れに気付いているのか、いないのか。


本田とはここに入学してから知り合った。
1年の時から、同じクラスだった。
そこそこ頭よくて、数学と生物が得意で。
ここは地方の県立高校のわりにそこそこ偏差値が高い。
指定校推薦枠もあるから、学校の成績さえよければ有名私立に行くのも可能だ。
本田の通知表は、全体的に私よりもよかった。
ちょっと頑張れば、名の知れた大学への推薦入試だって受けられたのに。

成績だけでなく、本田がものすごく絵がうまいと知ったのは最近のことだ。
あれは先週の土曜日だったか。
行きたいとこがあるからついてこい、っていわれて。
ついでに弁当作れ、って言われて。
そんなこと言われたの初めてだったから、柄にもなく楽しみになっちゃって。
朝からおにぎりとかたまごやきとか、すごい頑張っちゃって。
連れてかれた先は、隣町の森林公園の中でも一番閑散とした一角。
もう木の葉っぱなんか散りきっちゃってて、他に見るもんもなんもないようなとこで。
そこにある切り株のひとつに、本田は指定席だとかって座っちゃって、メッセンジャーバッグからスケブと、高そうなペン取り出して。
わたしのことなんてほっといて、黙々と絵を描き始めたのだ。
たまにおにぎり頬張って、「あ、たらこ」とか呟いて。

体よく「弁当女」にされた私は、仕方がないから別の切り株に座って、延々スマホでパズルゲームして遊んでいた。
何もない2月の屋外はヒマすぎて寒すぎて、ちょっとだけベソかきたくなった。
ひとりでできることは思いつく限りやって、もう限界って頃になって、ようやく本田はわたしを振り返った。
こんなに時間が経ってるとは思わなかった、って、カイロ握って震えてるわたしを見て本田は笑った。
そりゃあもう強く強く思ったものだ。
こいつ、ぜってー彼女できねーわ、って。
描きあがってから見せてくれた絵は、ちょっとすごかったけど。

本田が描いていたのはそのまんま、葉っぱが散ってハゲあがっちゃった木々の絵だった。
枯れかかった木は厳かで、その後ろの空は大きくて冷たくて、澄みきった空気の匂いがこっちにまで届いてきそうだった。
わたしはそっち方向はからっきしで、だけど、ちょっとその辺のカブレた奴の自己満足、ってレベルじゃなかった。
一度、自分で作ったのだとクラスメイトに同人誌を見せられたことがあったのを思い出した。
あれがお子ちゃまのお絵かきに思えてくる程度には、本田の絵は本格的で、すごかった。

「でも、どうすんの?」

「ん?」

「美大。行ってどうすんの。卒業したらあんた、何になりたいとかあんの?」

「……うん……」

一応相槌は打つものの、本田はその先を言いよどんだ。

「なによ、なんかあるから進路指導やら担任やら口説き落としたんじゃないの?」

「ん? ん……まぁ、あるというか、ないというか……」

「え、ないの?」

「いや、ないっていうか、わからんっていうか……」

「いやこっちこそわからんわ」

「あー……その、なんつーの?
とりあえず、ずっとやってられそうなこと続けたほうが、いいかなーっていうか」

「あん?」

「俺さ、絵描くのが一番好きなの。
絵だったら、うまく描けないとか、俺よりもっと上手い奴がいるとか、そういう壁にぶつかっても、それでも続けてられるって思ったわけ。
……想像できねんだよなぁ、普通に大学出て、普通に、通勤カバン持って毎日働いてるオヤジになってる自分がさ」

「でも絵じゃ食ってけなくない?」

「まぁな。ま、そのあたりはまたそのうち考えるわ。
で、そういうお前はどうなの?」

「あたし? あたしはねぇ、栄養士さんになりたいんだ」

「おまえ食い意地張って……」

「やかましいわい」

絵を描きたい。
音楽がやりたい。
文章書くのが好きです。

うちの学校の「勉強できないやつ」が言い出す三大ドリームだ。
上の2つを言うのは大体がチャラい連中。
最後のひとつはちょっと特殊で、どっちかというと暗くてオタクくさい奴らが多い。
彼らは彼らなりにガチらしくって、大学の文学部に行きたがってるらしい。

偏見を承知で言うが、うちの勉強できないやつが語る「夢」は、半分以上が絵空事に聞こえる。
もちろん、そんな連中ばっかりじゃない。
でも、クラスで幅を利かせてる奴らと、絵空事を語る奴らは一致していることが多いというのが、わたしの印象だ。
俺まだ若いし、とか、あたし才能あるし、とか、本人だけが、過剰に余裕や自信を持ってるように見える。
わたしも勉強はできる方ではなかったけど、現実味のない将来の夢を語りながら、放課後にはゲーセンやマクドナルドに入り浸ってる連中と、同じにはなりたくなかった。
栄養士、という進路希望も、それなりに、自分で妥当なところを考えたつもりだ。
わたしはだから、びっくりしていた。
わたしよりもずっと勉強のできる本田が、その「絵空事連中」とおんなじようなことを、本気でしゃべってるから。
そんでもって、本田の言い分に、ちょっと、ほんのちょっとだけだけど、一理あるような気がしてしまったから。

「三年生かぁ。なりたくねええぇぇ」

私がカレーを食べ終わる頃、本田がそう言いながら、ふにゃふにゃと机に突っ伏した。

「なんで」

「だってクラス変わるだろ」

「いいじゃん、楽しみだけどあたしは」

「……あー、そうだ、思い出した。おまえ、6組の工藤って子知ってる?」

「工藤さん? ……あー、選択授業で一緒だわ。かわいいよね」

「俺さぁ、あの子に誘われてんの。
今度、一緒に映画見に行きませんか、って」

「……う、うん」

「で、聞かれたわけ。おまえのこと。付き合ってるんでしょ、って。
見たんだってさ。俺らがパピコ分けてんのとか、俺の教科書におまえの字で落書きがあったとか。
……あ、おまえの教科書に、俺の落書き、だったかも」

「……」

「付き合ってないんだったら、来てください、ってさ。
私と、付き合ってください、だってよ。おまえどー思う?」

おまえどー思う?のところになって、ようやく本田が顔を上げた。
真面目なような、笑いをこらえてるような、何か隠してるような、そういう表情。
最初に言っておく。
わたしは、こいつの、こういうところが、大っっ嫌いだ。

本田はずるい。
こいつがクラス替えしたくない理由くらい、わかってる。
同じことは、わたしだって思ってる。
でも、本田はそれを言わない。
わたしにこうしてカマかけるような真似するくせに、自分から、自分の気持ちを喋らない。
わたしはわたしなりに、自分の気持ちはあらわしているはずだ。
だから誘いに乗って森林公園に行ったし、お弁当だって一生懸命作った。
ほったらかしにされたって、怒らなかった。
あの日、本田は私をほっといたことを謝らなかった。
けど、ラフスケッチの中、暇つぶしに側転してるわたしの絵があったのを、こっそり見た。
だからいいことにした。
他の誰じゃなくて、わたしを誘った、ということが、そういうことなんだ、と思って。

本田は、それをわかってるんだろうか。

黙りこくったわたしを、本田はじっと観察している。
わたしはいたたまれなくなったが、無視するわけにもいかなくて、でも、どう答えるのが正解か、わかんなくて。

「あんたはどうしたいのよ。行きたいの? 行きたくないの?」

結局、一番の不正解を口にしてしまった。

「んー、微妙。あの映画、おまえと見たやつだし」

「え、なんだっけ」

「『プロメテウスの涙』」

「あー、あの超つまんなかったやつ」

「工藤さ、あの映画の監督大好きなんだって」

「……へえ」

緊張は、するするっと収まった。
本田の返答と、続く会話が普通だったので。
かえってそれが癪だった。
ああ、今わたし、本田に手玉にとられたんだな、って。
悔しくて、しんどく思った。


わたしの志望校は近畿地方。
本田は関東。
どうなろうとなるまいと、来年の今頃には、わたしたちは離ればなれになる。


気持ちはとっくに決まってる。
当たり前だ、本田と恋なんかしたくない。
寂しい思いはしたくない。
それが、すべてだ。

「あんな映画じゃ間がもたねぇよ。一緒に行く相手がおまえならまだしも」

「え、なにそれ」

自分の脳みその世界で本田を罵っていたわたしは、奴のセリフをうわの空で聞いていた。
このほんのちょっとの間に、とても疲れたような気がしていた。
反射的に真意を聞き返してから意味を悟ったのだけど、ちょっとばかり、遅くて。

「……はぁ。だから! つまりだな!」

ばくっ、と心臓が跳ねた頃には、オーバーリアクション気味の本田の頬が染まっていた。
途端に鼓動がうるさく響く。
待てこの馬鹿本田。
なんだその顔は。
なんだってそんな顔でわたしを見る。
やめろ、まじで。
ほんと、やめてってば。

心に喉があるとしたら、その奥に小骨が刺さっている。
気持ちに手のひらがあるとしたら、その指先に棘がうずまっている。

もうちょっとだけ待って。
恋になんか、ならないで。


もう嘘か本当かもわからないことを願いながら、わたしは本田の言葉を待った。
追い詰められてしまったわたしは、とっさに助けを求めてあたりを見回した。
調理場のおばちゃんがカウンターに身を乗り出し、目をキラキラさせてこっちを見ていた。

(SS)once more -a spoon of your wish-

あるところにちいさな男の子がいました。
くるんと髪の毛のカールした、女の子のようにかわいらしい男の子でした。
いくつ?ときかれると、いつも決まって右手の親指だけを折り曲げてみせます。
でもほんとうは、男の子はまだ三歳です。

この男の子には大変大きな問題がありました。
いつまで経っても、大人しくごはんを食べてくれないのです。
男の子は年の割に、うんともの覚えのよい子でした。
スプーンとフォークを使って、上手にごはんを食べることもすぐにできるようになりました。
なのに男の子は食事の時間になると、決まってかんしゃくを起こしたように暴れるのです。
スープ皿をひっくり返したり、ソースのこびりついたスプーンを振り回したり、フォークで机をたたいたり。
何度も何度も同じことを繰り返す男の子の、不機嫌の原因が大人はわかりませんでした。

何とかしようと、何人もの大人が男の子をなだめました。
ある女の人も、男の子に言いました。

ごはんは食べるもの。
命をもらって、ありがとう、と思いながら食べなくちゃいけない。
こんな風にいたずらするのはもったいないし、いけないことだ。

丁寧に言って聞かせる女の人の顔に、男の子はパスタのトマトソースをぶつけました。
やめなさいと何度言っても、男の子はききません。
女の人が怒って叱るたび、男の子はにやにやと笑いながらトマトソースをスプーンに掬い、女の人に投げつけます。
パスタのお皿が空っぽになるころ、とうとう女の人が言いました。

こんなばかな子、もう知らない。
いつまでもそうやって、ひとりで暴れていればいい。

かんかんになった女の人はそう吐き捨てて、男の子のところからいなくなってしまいました。


しつけが足りないのだと、厳しく叱る女の人もいました。
男の子がごはんを食べる姿を、その女の人はずっとにらんでいました。
いつも通り男の子がスープ皿をひっくり返し、机全部がスープまみれになったとき、女の人は男の子をぶちました。
男の子はびっくりしました。
かぁっと広がる痛みに、ぽろりと涙をこぼしました。
それでも女の人は、男の子をにらんでいました。
男の子は涙をぐいっと拭いて、怒った顔でお皿をひっくり返しました。
女の人はもう一度、男の子をぶちました。
男の子が暴れるたびに、女の人は男の子をぶちました。
いたずらをする手を、涙の跡の残るまあるい頬を。
ぶたれる痛みに、止まった涙がまたこぼれます。
それでも男の子はいたずらをやめません。
やめないから、女の人にもぶたれます。

じきに、男の子はぐったりしてしまいました。
顔や腕は腫れて真っ赤になっていて、いくつか青痣もありました。
気付いた周りの大人が、虐待じゃないか、と女の人を男の子から引き離しました。

悪い子をしつけるには力しかない。
みんな馬鹿だこと。
あの子をしつけられるのは、わたししかいないのに。

どうなったって知らない、と、捨て台詞を残して女の人はいなくなりました。


中にはものめずらしさから、男の子のいたずらを見に来る女の人もいました。
男の子のたいそうかわいく愛らしい容姿に、その女の人はとても喜びました。

なんてかわいい子なの。
まるで天使みたいじゃない。

満面の笑みを浮かべて誉めそやしながらも、女の人は男の子を、まるで見世物のように扱うのでした。
女の人に向かって、男の子はフォークを投げつけました。
女の人はそれを取り上げ、やっぱりかわいいと男の子に笑いました。
そうして男の子のそばにまとわりつきました。
髪の毛に触ったり、頬をつっついたり、ひっくり返ったスープ皿を元に戻したり。
そのたびに男の子のかんしゃくはひどくなり、大声でわめくようにもなりました。
なのに女の人はそれさえも面白がって、何度も男の子をからかいました。
時にはスプーンを取り上げてみたり、はたまた手ずからごはんを食べさせようとしてみたり。

あらかたの反応を楽しんだ頃、女の人は男の子を置いて、どこかに行ってしまいました。
探しにやって来た人に聞かれて、女の人は笑いました。
どうしていなくなったのか。
どうしてあの子を置き去りにしたのか。


だって、飽きちゃったんですもの。



そういうわけで、男の子のかんしゃくを直せた人は、今まで誰もいません。
ひとりぼっちの男の子は、毎日元気に暴れていました。
暴れて暴れて、自分も机の上もお部屋の壁も、みんなみんなぐちゃぐちゃにしながら。



うわぁ、きったない。



その女の人は、部屋に入るなり言いました。
確かに、その日の部屋はいつも以上の惨状でした。
ひっくり返ったカレーライスに、壁にこびりついたタマゴサラダ。
コンソメスープは机の上に広がって、まるで透けたテーブルクロスでも敷いているみたい。


なんでこんなことするの?
カレー、きらいなの?


男の子は驚きました。
何かをたずねられたことがなかったのです。
困った男の子は、ただそっぽを向きました。


わたし好きだけどな、カレーライス。


もったいない、という言葉が、男の子の胸にちくりと刺さったのでした。


それからしばらくの間、女の人は男の子のところに毎日やって来ました。
男の子はいつものように暴れていて、女の人はそれを、心底不思議そうに眺めているのでした。
咎めるでもなくしつけるでもなく、ましてや面白がることもなく。


女の人が来た回数を、数えた左の手が「グー」になったその日、男の子はとってもおいしいものを食べていました。
小さく刻んだベーコンと、アスパラととうもろこしの入ったスクランブルエッグ。
誰がどうやったのかは知りません。
でも、ほっぺたが落っこちそうなほどおいしかったのです。

男の子はいっしょうけんめい、スクランブルエッグを食べました。
こぼさないように全部食べるのは、けっこうむずかしいものです。
どうしても最後に、ベーコンととうもろこしが残ってしまいます。
久しぶりにちゃんとスプーンを使うからでしょうか。

うまくいかないのに腹が立ち、男の子が器とスプーンを投げ捨てた頃、女の人が入ってきました。
女の人の目の前に、食べられなかったベーコンととうもころしが散らばりました。
足もとに転がった器を持って、女の人は男の子のところにやってきました。


……おいしくなかった?


格好わるいところを見られた男の子は、黙ってそっぽを向きました。
本当は、とってもおいしくて、おかわりしたいくらいだったのに。


これ、わたしがつくったのよ。


思わず男の子は振り向きます。
女の人は、とてもかなしそうな顔です。
ぐっと、男の子の胸が痛くなりました。


ふぅ、と。
諦めたような笑い方をして、女の人はいなくなってしまいました。



その日から、男の子は暴れるのをやめました。
ひとりぼっちでも、上手に大人しく、ごはんをきちんと食べるようになりました。


男の子は思っていました。
女の人にあやまりたい。
とってもおいしかったのだということを伝えたい。
でもその日っきり、女の人は来てくれません。
女の人が来てくれた数と、来なくなってから数えた数が同じになりました。
いい子にしていたのは、いつ女の人が来てもいいように。
なのに。


男の子はまた暴れたくなりました。
ごはんを食べるたびに、あの日の女の人の、かなしそうな顔を思い出してしまいます。
また胸がずきずきと痛くなるのです。
だのに、ほっぽりだそうとスプーンを振りかざせば。


にぎりしめた手に、ぽたりと雫が落ちました。


ひとつ。
またひとつ。


とうとう男の子は、すすり上げながらしくしくと泣き出してしまいました。
かんしゃくともやんちゃな声とも違う小さなそれに、どうして気がついたのでしょう。
驚いたように、大人たちがどんどん集まってきました。
その中にはあの女の人たちもいました。
我慢強く男の子を諭そうとして、匙を投げたひと。
ぶって男の子をしつけようとしたひと。
散々かまって甘やかして、気がすんだからと去ったひと。

誰もが心配そうな顔をして、男の子の傍に寄ってきます。
でも、誰も男の子を泣き止ませることができません。
どうしたのと尋ねても、男の子はただ泣くばかり。


あの女の人は、最後の最後にやってきました。
男の子の涙の理由がわからず、みんなが困り果ててしまった頃。
髪を束ねて、エプロン姿で。
ふんわり匂ってくる、何かの食べ物のいいにおい。

目が合った瞬間、男の子が一層激しく泣きました。
わあっ、と声を上げる男の子に、女の人は言いました。



大丈夫、怒ってないよ。



男の子が伸ばしてきた両手を女の人はぎゅっと握ります。
頭を撫でられて、はじめて男の子が言いました。



ごめんなさい。



それは大人たちが初めて聞く、男の子の言葉でした。



わかったでしょう。
さびしかっただけなんですよ。



女の人に抱きしめられながら、男の子は知りました。
どうして暴れたかったのか。
どうしてみんなが困るところが見たかったのか。



それから、男の子がひとりになることはなくなりました。
男の子がごはんを食べる時に暴れることも、なくなりました。
いろんな大人が、男の子と一緒にごはんを食べて、お話をしてくれるのです。

大人たちは男の子に教えました。
大人にも好き嫌いがあること。
お腹いっぱいになって、残してしまうこともあるということ。
でも、おかわりしたくなるくらい美味しいものだって、世の中にはいっぱいいっぱいあるのだということ。
それから。


好きなひとと食べるごはんは、ごちそうをもっと美味しくしてくれるのだということ。



こんにちは。



二人分の食事を運んできた女の人に、男の子は笑います。
右手にフォーク、左手にスプーン。
さあ、今日のごはんはなーんだ?




(SS)朝

薄明かり。
灰の混ざった青。
仰ぎ見る天井。
浅黒い首筋越し。

きっと、お天気。

半ばのしかかった姿勢で眠っている人は、前髪に寝癖をくっつけ、小さくいびきをかいている。
なんとなくそれを撫でると、枕にでもするように顔を擦りつけられた。
おはようさん、おにいさん。
今日は暖かい一日になりそうよ。

重みを受け入れながら、手持ち無沙汰に朝が来るのを眺め待つ。
次の季節は光と一緒に、部屋の中にも入り込む。
鳥が鳴いて、青の中から灰が薄れる。
濃く澄みわたり、高く広い空がやってきて告げる。
「さあ、もう起きなさい」と。


新しい日を始めて、新しい何かを見つけに行きなさい。
そして受け取り、取り込み、新しいあなたになっておいで。


微睡む彼と、彼の下敷きになっているわたしたちはまだひとつだ。
抜け駆けして、暗がりに二人で隠れて、ドキドキしながら秘密を分け合った「まつりのあと」。
そのわたしと彼に朝は言う。
身体を起こして出てきてご覧、と。
暖かい光が触れ合っていることを不快にさせていく。
朝は躊躇うわたしをそうして誘う。

もう寒くないだろう。
そこから這い出て、見に来てご覧。
ぬくもりよりも君が欲しいと思っているものがあるはずだ。


名残惜しいわたしはそれでも、彼の背中を撫でるのをやめられない。
本当はもう、気がついているからだ。
「名残惜しい」とはどういうことか。
自分が何に先立ち、何を惜しんで、手放せないでいるのか。




ねえ。
楽しかったねぇ。
たくさん笑ったねぇ。

あのさ。
いつもなかなか、言えないでいたんだけどさ。

わたし、いつだってあなたに救われてたよ。
慰めてもらってたよ。

あなたにはもしかして、そんなつもりなかったかもしれないけどさ。


わたしはね、あなたとそうして過ごせることが本当に、本当に嬉しかったんだ。
だからね。
あのね……。




朝はわたしと彼に、別の日を用意した。
それを恨みに思って、逆らって、誰にも見えないところに逃げようとした。
ただついてきてくれたのか、それとも賛同してくれたのかは知らない。
でも彼は「ここ」に、わたしのそばにいてくれた。
だから信じられるようになった。
まだ見えていないものたちのなかに、きっと、今手の中にあるものよりも、もっともっと素晴らしいものがあるってこと。


わたしたちは別々の日を過ごし、別の新しさの洗礼を受ける。
別の何かを与えられ、別の何かに傷つき、乗り越え、立ち上がり、今とは違う自分になる。
もう、恐れて逃げるのは終わりにしなければならない。
なぜならわたしはおくりたいから。
変わることを。
進むことを。
うしろではなく前を向くことを。
やってくる「朝」が孕む無限を。
不確かな「可能性」の中に隠された、目に見えない宝物を。

わたしの冷たさの半分を引き受け、あたためてくれた大切なひとに。



「     」



彼の身体はいつも、私よりも少しだけ熱かった。
頚動脈に落としたのが最後のキスになった。
肌の下から薄く浮きあがったそこから、太陽の匂いと涙の味がした。

(SS)はつこひ

初めてその感情を知ったとき、それは私のものではありませんでした。
私はその心を向けられている対象で、得体のしれない熱と底なしの暗さを、少しばかりさめた心地で眺めていたように思います。
冷たい人でした。
穏やかな人でした。
わかりにくい優しさの受け止めかたがわからず、戸惑わされることの多い人でした。


私は、彼のことが苦手でした。


あからさまに言い寄られた経験がないわけでも、人並み外れて対人関係に苦心する質でもありません。
ありきたりな程度の社交性はあるはずで、空気が読めないと称されることもなく。
そもそもの関係においても、彼もまた、そうして付き合う相手の一人のはずでした。
実際、私たちの距離感はとても適切だったのです。
私が彼の中に、その心を見るまでは。

思い当たるそれと言えば、浮わついた不安定さやら、軟派な軽薄さと裏表をなしているものばかり。
最悪、他にとりかえることだってできなくはない。
複数のブランドショップを渡り歩いて、似たような服を選ぶように。

そんな感覚で見つめられていたなら、こちらも素直に浮かれてやに下がれたのかもしれません。
なのに彼のそれは、私にそんな高揚を許してはくれませんでした。
重かったわけでも、鬱陶しかったわけでもありません。
嫌悪に類する思いではないのです。
そうなる前から、私は彼をとても信頼していたし、好ましい人物だと思っていたから。


何度も聞きそうになりました。
どうして私を見るとき、そんなに瞳がひかるのか。
なのに眦が柔かくなるのか。
ときにはとても苦しそうになるのか。
たまに、なにかを隠すように目を逸らすのか。
でも、そのどれも言葉になりませんでした。
彼は決して、私を己にふみこませてはくれなかったからです。


あんな見つめかたをするくせに。
あんな心を抱いているくせに。


彼はまた理解もしていたのです。
私の心が、己を向いてはいないことを。
どれほど思いが膨らもうと、それと私は関係があるようで、全くないのだと。

覚悟が見てとれました。
報われないこと。
やぶれること。
ひどくひどく、傷つくこと。

冷たいのは、率直だから。
穏やかなのは、内側で燃え続けるものを幾重にもくるんで隠して、閉じ込めているから。


わかりにくいのは、本当に、私を。
まぶしいくらいに、真っ直ぐに。



彼のように人を想ったことのない私には、人がなぜ人を好きになるのかはわかりません。
好かれたくて好きになったわけじゃないと、長い片恋をしていた人に言われたことがあります。
でも、好きになったなら好かれたいと望んでしまうものではないのですか。
心が強く深くなるほど、同じものが戻ってこないことに傷つくものではないのですか。
それでも、そんな気持ちを抱え続けることができるのですか。

疲れませんか。
辛くはありませんか。
私のどこを、あなたはそんなに慈しんでくれるのですか。
なのにどうして、私を愛したままあなたは私から離れようとするのですか。


あの目と自分のそれを合わせるたびに、聞きたいことも言いたいことも増えました。
でもなに一つ、言葉にすることができませんでした。
間違いなく今目の前にあるのに、触れようとすれば、確かめようとすれば、途端に霧散してしまいそうで。
そのうち私の中にはいつも、あの人の存在が居座るようになってしまって。




大切なものは、いつだって見えないからね。



眦を甘く緩ませてあの人は私に嘯き、何故かしら、私の胸は締め付けられたように疼くのでした。

(SS)待ってくれるあなたをなくして

許容と愛って、似てるようで全然違うのよ。
あんたの気持ちはどっちだったの?



非難の色味のひとつもない声音が、ずっと胸に刺さっていた。
輪郭を持たなかった心が集束して、あっという間に形になった。
そういうことか、と、納得した。



ここにはもう来ないで。



実質上の別れを切り出されたのは先週の日曜日。
いつものように合鍵であがりこんで、疲れのままに眠っている横顔を眺めていた。
目が覚めて最初に私を認めたときの、照れくさそうな、嬉しそうな顔が好きだったのだ。
それを期待して待っていたのに、目覚めた彼の表情はひどく複雑なものだった。
なにか、こう、どこかに痛みでも感じているかのような。

朝ごはん作るよ、と、いつものように話しかけた。
ありがとう、と返事が返ってくるまで、少しばかり時間があった。
何かあったのなら、食事の後にでも聞いてみよう。
落ち込んだ彼の顔を見ても、能天気な私はそのくらいにしか思わなかった。
なんだか食が細いと思っていたら、トーストを三分の一ほどかじった頃に彼が切り出したのだ。
もうここには来ないでほしい。
君とはもう終わりにしたい、って。

しばし絶句してしまったのは、ショックというより驚いたから。
いつか別れ話をするとして、それは自分の方からだとばかり思っていたのだ。



わたしのこと、嫌いになったの?
ほかに好きな人でもできた?



癪な気持ちが沸いて、わざと意地悪な聞きかたをした。
そうじゃないっていう自信があった。
先週の彼には、そんな素振りはなかったからだ。
それにお互いの感情を秤にかけたとき、重いのは彼の側。
「私が彼を想うより、彼が私を想う気持ちのほうが強い」。
お互いが何となくわかっていたことだし、言葉にはしなくても力関係ができていた。
どっちのほうが立場が上か、わきまえた上での付き合いを続けていたはずだった。

何となくもてあそんでいたフォークを置いて、彼はとても辛そうな顔をした。
強く瞬きをして、大きく息を吐いて。
搾り出すように音にしたのは、「もう君に会いたくない」。
その言葉に、思いのほか心をえぐられた。



平静を装うのに、結構骨が折れた。
余裕っぽく、まるで何事もなかったみたいに、食事といつもどおりの会話を続けたつもりだ。
内心は全然そんなことなかったって、自分が一番よくわかっていた。



電話で姉に白状させられる羽目になったのは、それから二日後。
酒好きの私が飲みの誘いに乗らないなんておかしいって、何があったんだって食い下がられて。
振られた、と一言で済ませばよかったのに、動揺はまだ収まってなくて。
事の次第を、順を追って説明していた。
そのうち彼とのなれそめまで。

放っておけなかったのはきっと、彼の寂しさがわかるような気がしたから。
恋愛対象としては好みのタイプではないけれど、一緒にいて楽しい人だった。
好きな漫画や音楽の好み、趣味に共通するところがあったから。
話す話題には事欠かなかったし、わりとのびのび「寝る」こともできた。
都合のいい、ひとだった。



なにがそんなにショックなの。
プライドの問題?



くさくさした気分はなかなか変わらず、そのうち、会って話を聞いてもらうまでになっていた。
その日は姉がうちに来ていた。
どんな風に話しても、どれも自分の気持ちとどこか違っていて、同じ話題を何度も繰り返してしまう。
しばらくはただ頷きながら聞いてくれていた姉が言ったのがその台詞だ。
思わず返答に詰まる私に、姉はしたり顔で続けた。
向こうの気持ちに付き合ってあげてたってだけじゃなくなってたのね、と。


始まりが何であろうと、付き合いが長じれば多少の情くらい湧くってものだ。
高飛車な言い回しだとは承知しているけど、それが正味のところだった。
「くやしい」、「やるせない」、「認めたくないけどかなしい」。
それぞれの気持ちがマーブル模様になったようなところに、私の心境があった。

好きな相手と付き合えてるのに、何がそんなに不満だったのか。

クッションに八つ当たりしながらの呟きを、姉は聞き逃さなかった。
私といくつも違わないのに、子供を諭すような顔でたずねてきた。



許容と愛って、似てるようで本当は全然違うのよ。
あんたの気持ちはどっちだったの?



質問の意図するところを、いまいち掴みかねた。
拗ねた子供みたいな心地で、もう一度だけクッションを叩いた。


彼に会わない週末を二回過ごした。
いつもならメールや電話のひとつもあるのに、一度も連絡は来なかった。
こちらから連絡する気にはなれなかった。
本当はできなかった。
口実を、うまく見つけることができなかった。
彼に送るメールを書こうとして、何を書けばいいかわからなくて。
思い悩んでいるうちに、画面が涙で見えなくなって。

二週間のうちに三回もそんなことを繰り返せば、わかりたくなくったってわかってしまう。
自覚していたよりもずっと、彼が大きな存在だったっていうこと。
大きな楽しみだったっていうこと。
彼に会うこと。
顔を見ること。
一緒に食事をして、作ったものを美味しいって言ってもらって。
くだらないことでも何でも話して、肌の温度と一緒に我を忘れて。


あの日姉に聞かれたことの、答えが今になって出た。
傷ついたのは自尊心なんかじゃない。
彼の日常から追い出され、拒まれたことがつらかったのだ。
確かに私は、彼を愛してはいなかったかもしれない。
彼が向けてくれているものと、同じ温度の感情はなかったかもしれない。
けれども「許容」は少しずつ、それとは違う何かになり始めていたのだ。
その何かを「愛」と呼んではいけないというなら、私は自分の心につける名前を知らない。
近頃の私にとって、そんなふうに時間を共有したかったのは彼だけだったのだから。


思い出すたびに、胸がとても痛くなった。
苦しくて、つらくて、いてもたってもいられない気分だった。
それなら考えなければいいのに、頭の奥で勝手に、沢山の彼の表情がよみがえった。
笑った顔、疲れた顔、柔らかく私を見つめる顔。
ご飯を頬張った子供みたいな顔。
暗がりで私を翻弄するときの男の顔。

最後に会った日の、思いつめた顔。



会いたい。
嫌いにならないで。



彼への言葉がやっと用意できたのに、それを伝えることはできそうもなかった。
怖くてどうしようもなかった。
また拒まれること、傷つくこと。

いじけた私はベッドの中に隠れて泣いた。
寂しくて寂しくて、たまらなかった。



(SS)夢

夜明けから少し経った頃。
眠りから覚める直前に夢を見た。
赤いポロシャツの男性に包みこまれている夢だ。
男は誰かと何かを話していて、その内容に私が笑い、彼が「あぁ笑った」と顔を綻ばせるのだ。
心底安堵したような声音が嬉しくて、嬉しすぎた私は、今度は彼に頭を預けて泣いてしまった。
声を殺してシャツに顔を埋める私に、男はすかさず両腕を差し出した。
当たり前のように抱き込まれ、こみ上げてくるものがあった。
ひどく優しく何かを聞かれた気がする。
私はそれに頷きながら、涙を止めることができずにいた。


魔法は、そこでとけた。
男の顔は、見なかった。


現実の私は、むせ返る陽気にじんわり汗をかいていた。
隣には誰もいない。
一人暮らしを初めて、もう何年にもなる。
一人寝を寂しがるような性質でも、歳でもない。
なのに、心は突然からっぽになった。
呆然と立ち尽くしているときに似た気分が、その空の部分を埋めた。
自然と、溜息が出た。


結局、実のない一日を過ごした。
何も考えられなかった。
何をしても楽しいと思えなかった。
好きな音楽を聞いても、黒蜜を垂らしたアイスミルクを飲んでも。
いつもより余計に煙草を吸い、少しばかり間食をし、あとはただ。


眠っている間に見る夢は、決して嫌いじゃなかった。
現実では起こりえないような、奇想天外さを楽しめるから。
なのに今朝になって知った。
あまりに手触りのいい夢は、心にみじめさだけを残すのだということを。


「私」という意識と肉体的な器官は、ある面では別物で、けれどやっぱり根が繋がっている。
だからこそ痛感させられる。
この頭が生んだものはきっと、無意識のうちに私が求めてやまないものなのだと。
あるいは、あの夢が単にいつかの出来事なのだとしても、記憶の底に沈んでいたものを今頃発掘してきたところには意味がありそうで。


求めているものが、いつでも得られるとは限らない。
求めたものが、望みを叶えてくれるとは限らない。


どのみち募るのは寂しさだけなのだ。
それを理解しながら毎日を重ねてきた。
なのに今日だけは、それを紛らわせるのがとても難しかった。
無意味に怠惰に時間をつぶした。
洗濯に使う柔軟剤を時間をかけて選んだり、念入りに眼鏡を拭いたり、ショッピングサイトを覗いてみたり。

二杯目のカフェオレを淹れながら、ようやく少しだけ泣けた。
あの柔らかで心地のよいものを、私はもう、眠りの中だけでしか感じることはできないのだと。



安らぎが欲しい。
諦めと引き換えでもかまわないから。
どうか。



部屋の隅で膝を抱えて、私は仕方なく目を閉じた。


(SS)綻ぶ

片思いの相手をまだ振り切れない。
遠まわしでもあり、これ以上はないほどにダイレクトでもある拒絶の返答に、彼はそれでもいいのだと私に笑った。

別に何したいってわけじゃない。
たださ、もうちょっと近づけたらいいなって思ってるだけ。

フラれているはずなのに、妙に朗らかな表情でいるのが不思議だった。
戸惑う私を見て彼はさらに笑った。


わかんない?
俺あんたが好きなんだよ。
そんだけ。



とても、綺麗な笑みだと思った。



それから私と彼は少しずつ、心の距離を近づけていった。
多分、彼が求めたとおりの道筋で。
「友達」という言葉で言い表すのが、非常に適切だった。
会えば一言二言会話をし、時には共に昼食を食べ、気分がのれば一緒にコーヒーを飲んだ。
仕事の悩み、人間関係、今の自分のマイブーム。
彼の相槌と質問は的確で、話をするのが本当に心地よかった。
言葉が途切れると、彼はたまに、黙って私の顔を見ていた。
何かと聞いてもただ顔を横に振って、あの甘い綻びで私に応えるだけだった。



こんな時間を、もしも「あの人」と持てていたら。



そんな気持ちが、裏側でちりりとくすぶった。
彼とすごす時間に、穏やかな楽しさと安らぎを感じるほどに。
「あの人」と彼が、あまりにも違っていたから。


私のことを見てくれなかった。
私のことを、一人の人間として認めてくれなかった。
自分の苦痛に振り回されて、それに私や、ほかの人間を巻き込んでばかりだった。
「あの人」はいつだって、自分に近づく人の心を引っかいていた。
自分が引っかかれないように、自分が誰かに、傷つけられることがないように。


何があっても味方でいたいと思ってる。
ただあなたのことが好きだから。


素直に言うには、私は不器用で自尊心が強すぎた。
そう言えば、「あの人」にとっての私が「顔」をなくすことがわかっていたからだ。
言い寄る異性に事欠かないのが「あの人」だったから。
ありきたりな台詞を使えば、ありきたりな存在に成り下がる。
それが、どうしても我慢できなかった。


感情と一緒に、心が少しずつ腐っていった。
気持ちは日ごとに重たくなった。
自分のことを、見失った。
やり場のないものをひきずって、やけ気味にふらついているところに近づいてきたのが「彼」だ。
にこやかさを社交辞令であしらいながら、心の中でせせら笑った。
適当に羽目でもはずして、上手に誤解させてあげようか。
暇つぶしくらいにはなるだろうし、彼だってきっと楽しいに違いない。
はじめはそう思っていた。
彼を知るうちに、できなくなった。


彼はいつも、私に心を隠さなかった。
言葉と心が一緒で、裏だとか、言えない本音みたいなものがどこにもなかった。
率直さが胸に刺さって、時間が経つほどに救われた。
自覚していたよりもずっと、自分が苦しんでいたことを知った。

「あの人」の味方でいようとするほど、自分で自分を騙していた。
そうするしかなかった。
本当の気持ちとは違うのに、無理な我慢をずっと続けていた。
そうでなければ、心を保っていられなかった。
彼は教えてくれた。
「つらかった」と言っていいのだと。
疲れきった自分の心を殺して、想い続けなくてもいいのだと。


好かれたくて好きになったわけじゃない。
それは確かな事実だけど、好いた相手に好かれれば何より嬉しいのもまた事実だ。
虚勢を張るしか知らない私は、後者の望みから目を逸らして、強がってばかりいた。
諦めていたからだ。
私の目には「あの人」が見えているけど、「あの人」には決して、私のことは見えないから。
何も見ない人だから。
目を閉じ耳をふさぎ、真っ暗な中に閉じこもっている人だから。


いつも思っていた。
寂しい場所から出てきたらいいのに、って。
私がそう思うほどに、「あの人」との間には隔たりができた。
孤独でひとりぼっちな人だとみなされたことが心外だったらしい。
「らしい」なんて言い方しかできないのは、そのくらいすれ違ってしまっていたから。
それでも心は離れなくて、捨てられなくて。


胸の真ん中でぼろぼろになって、穴だらけになっていたのは、一体どんな名前の感情だったのだろう。
ただもう私は、とてもくたびれていた。


彼が私に近寄ってきたのは、喫煙量が日に日に増え、紫煙を燻らせては頭を抱えていた頃。
人懐っこくにこやかに、笑っていたほうがいいと言ってきた。
私の笑顔がきらきらしていて好きなのだと。
そう言う彼のほうがずっとずっと、きらきらと明るい雰囲気と魅力を放っていた。
どうしてこんな私にかまけるのか、不思議に思えてくるくらいに。

そうして彼は見事に、私の懐に入り込んだ。
仲のよさは周囲も公認で、私と彼が付き合っているものだと思っている人も少なくないらしい。
けれど私たちは何一つ始まっていない。
「必要な」一歩を踏み出さないまま、じれったく境界線の傍をうろついている。
そこを越えてしまえばもう戻れないから。
気づいているけど見ないふりをしているのだ。
私はまだ「あの人」に心残りがあるから、彼は私を、失ってしまうのがこわいから。


特別な思いもないのに、なりゆきに任せて深入りするのは相手を侮辱するのに等しいことだ。
同時に自分のことを軽んじて、傷つけてもいる。
それじゃ「あの人」と同じだ。
自分で五感を閉じているくせに、いつも暗がりの寂しさに呑まれそうになっている人。
人を弄んで、利用して、踏みにじることでようやく、気を紛らわせて過ごしている人。
(だから気づいてさえいなかったのかもしれない。
他人を傷つけるから、傷つけられているのだということに。)


彼と近しくなるたびに何度も思った。
このまま彼のことが好きになれたらいいのに、と。
実際、それらしい雰囲気になったことだってあった。
言葉にならないもののせいで、意味深な目線を通わせてしまったことは一度や二度じゃない。
けれど、どのタイミングもつかめなかった。
心にその「兆し」が、ひとっつもあらわれてくれなかった。



夕食を一緒にと呼び出されたのは水曜の夜。
異動で本社勤務になるとかで、今までのようには会えなくなるらしい。
深刻そうな面持ちの彼が言いたいことはもうわかっている。
だから先に伝えた。
向こうでも元気でと。
あっちにはもっと、おしゃれでかわいい女の子がたくさんいるよ、と。
一瞬だけ傷ついた顔になった後、彼はいつもの彼に戻った。
いい子が見つかったらいいなぁ、という言葉に、一緒に笑って、乾杯した。


帰りの地下鉄の中で少しだけつらくなった。
乗り換えのホームで涙が出た。
自分がどれほど綻びだらけだったのかを思い知った。
同時に、彼がどれほど丁寧に、私のその心をリペアしてくれていたのかも。



出発の日は知らされていたけど、見送りには行かなかった。
気をつけて、とメールだけ送った。
好きになれなかった相手との名残を惜むなんて、こんなにいやらしいことはない。
けれど寂しさと不安があるのも、やっぱり本当で。


申し訳なくなるほど、伝わっていた。
彼の心は、いつだって真摯だった。


考えるほどに、心細くなる。
これから先、彼みたいに私のことを見てくれる人に出会えるだろうか。
私はその人を見つめ返して、心を傾けることができるのだろうか。
自信なんて、どこにもない。

しばらくの間は、糧にしようと思う。
思い出しながら、毎日をやり過ごしていったらいい。
楽しかったこと、心地よかった記憶。
彼が私に向けてくれた、柔らかで優しいものたちをたくさん。
二度と希望を、見失うことのないように。




あんたさ、笑ってた方がずっといいよ。




彼が私にくれた温度を、私はきっと、いつまでも忘れない。

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